門戸厄神 東光寺

西宮で、古くから知られた門戸厄神さんまでお参りに 行ってきました。 昔から、親の話には度々出てきており、私も、親の  厄参りなどの時に連れてこられたことがあったよう なのですが、全く記憶に残っていないので、 あらためて参拝してきました。 阪急電車の門戸厄神駅で下車。 この駅前の道は 昔の西国街道だということが分かり、少し驚きつつ、 案内看板に沿って門戸厄神と言われる東光寺を 目指して歩くこと十分ほどで到着。 厄神明王道(参道入口) 東光寺南門 中楼門 表門 矜羯羅童子 制多迦童子 矜羯羅童子・制多迦童子は、不動明王の眷属の八代童子の 中の二童子として最も知られています。   33段の女坂を上って中楼門から境内へ・・・ 楼門をくぐると正面に厄神堂、右手方に薬師堂。 左手方には愛染堂と大黒堂。  そして大師堂も見えています。 厄神堂 東光寺には厄除開運の厄神明王さまが祀られています。 嵯峨天皇が41才の御厄年の時、愛染明王と不動明王が 一体となり、あらゆる災厄を打ち払い、魔を退治する力を 夢の中で感じ悟られました。 弘法大師にこの夢をお示しになると、大師は自ら白檀木に 愛染明王と不動明王が一体となった明王像を3体、刻み 祭られました。 そのうち1体が東光寺に伝わる厄神明王さまです。 その御姿が厄除の護…

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櫨谷(はぜたに)神社

端谷城跡から名谷方面に帰る道路際に、石の鳥居と 櫨谷神社と書かれた石柱があります。 神社自体は、鳥居から階段が続いており、直接は 見えません。 今迄は気になりながら、車で通過するだけでしたが、今回は 単車で来ていたこともあり、鳥居横に単車を停め、参拝の 為に鳥居をくぐり、石段を登りました。 今は、この神社の前を車が通る道路が走っていますが、 神社から少し離れたところに、小さな集落が二か所ほど あるだけのところです。 ですので、小さなお社がある位のところというイメージしか なかったのですが、、実際の神社境内に入ると、大変 驚かされました。 写真でもお分かりいただけると思いますが、まさかの 広い境内。 そして奥まった山裾には堂々とした立派な 社殿が見られたのには、ナニコレという感慨が強く印象的 な神社でした。 社務所もありましたが、普段は無住のようで、管理は 村人の力に寄っているのか、清掃も行き届き、清々しい 明るさに溢れた境内です。 普段から参拝者は少ないようで、この日も誰とも 会うことがありませんでした。 お陰で、ゆっくりと参拝出来るとともに、祝詞も気兼ねなく 声を出して唱えていました。 【ご祭神】   主祭神:  大日靈命    配祀神:   天児屋根命           吉備津彦命           国常立命          …

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端谷城跡 満福寺 新長谷寺

端谷城(はしたにじょう) 神戸市西区櫨谷町寺谷 端谷城跡は、神戸に残る城跡の中でも、開発から 免れて、往時の面影が残るところとして、神戸市の 史跡に指定されています。 この日は、いつも車で通る、神戸農業公園近くで気になって いた、櫨谷神社と端谷城跡などに足を運んで来ました。 先ずは、室町時代からあり、秀吉の三木城攻めで 攻め落とされた端谷城の跡を見学です。 (後方の小高い所が城跡です) 端谷城跡に満福寺という、城主衣笠氏の菩提寺がありますが、 普段は住職がいないようで、鐘が自動撞きでゴンゴンと音を 鳴らしていました(丁度12時に参拝) 鐘楼  後ろの石塔は衣笠氏一族の供養塔(墓塔) 自動撞きの鐘 端谷城は三木城主・別所長治に仕えた衣笠範景の居城として 知られています。 西国街道の要衝でもあり、摂津と接していることから、三木城 の支城としていわゆる「境目の城」としての役割を担っていました。 1578年(天正6年)に別所氏が羽柴秀吉に反旗を翻すと、範景 も淡河の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに別所方として戦い ましたが、織田信澄・明石則実らの軍勢に攻められ天正8年 落城しました。 現在城址には土塁や空堀などの遺構を確認することができ ます。 また三の丸跡にある満福寺には範景の墓碑があります。 五穀山 満福寺 天台宗   御詠歌      …

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芦屋神社

東の田園調布と比べて、西の高級住宅街と言われる 芦屋の中でも阪急電車から山手にかけての一帯は 坂道の多いところですが、羨ましいばかりの豪邸が 建ち並んでいます。 この日も、芦屋神社に上る坂道を歩いていると、見かける 車は、高級外車が多く、中には見たことも無いような車も ありました。 そんな高級住宅に囲まれた芦屋の高台に芦屋神社が 鎮座しています。 今は、神社鳥居から参道一直線の坂道の下方に芦屋の 浜にありますマンションが、かすかに見えていまが、 昔は、大阪湾全体の眺望も良かったところだったという 思いがしました。 阪急芦屋川駅付近 開森橋から見た蘆屋川上流・城山・ロックガーデン方面 ライト坂 天神社石灯篭 芦屋神社付近から海を見る 芦屋神社付近 神社正面 境内案内図 社殿 獅子(常盤) 狛犬(堅盤) 芦屋神社由緒 縁結び・産業繁栄・諸難抜除の神として崇敬をうけて おります天穂日命は、天照大神の第二子であり、 大八洲国の主宰神であった大国主神と国譲りの交渉を 結ばれました。 その後、大国主神の大神殿を築き、自ら祭主となられ ました。 その血脈は永々と継承され、今日も御子孫が祭主と して出雲大社をお祀りしておられます。 当神社の創始は不詳ですが、天穂日命が高天原より 降臨された磐座が六甲山頂に現存することや、境内に 横穴式…

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尼崎の貴布祢神社

寺町に沢山ありますお寺に少し立ち寄りながら、 出屋敷方面に歩き貴布祢神社を目指します。 神社横の貴布祢公園入口 2号線側に参道・鳥居 境内 拝殿 【御祭神と由緒】 かつて尼崎城主の崇敬が篤く、代々御祈願所を務めて きたことから、現在に至るまで多くの市民に 【尼崎の総氏神】として親しまれています。 創建年代は明らかではありませんが、摂津志には 嘉暦元年(1326)に創建されたと伝えられています。 元は尼崎城内三ノ丸に鎮座していましたが、元和3年(1617) の戸田氏鉄による改築城の際、現在の西桜木町に、 その後現社地には正徳5年(1715)に遷座しました。 【御祭神】    高龗神(タカオカミノカミ)    加茂別雷神(カモノワケイカヅチノカミ)    加茂御祖神(カモノミオヤノカミ) 【境内末社】    白波稲荷神社    白龍大神   市庭戎神社       愛敬三社   榎 社 相殿社   本殿 気になったこの模様は何? 御朱印

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尼信会館・尼信世界の貯金箱博物館

櫻井神社から庄下川の橋を渡ったところに、時代を 感じさせる建物が目につきました。 琴城ヒノデ阿免本舗と言う、創業100有余年の歴史 がある、水飴のお店でした。 手作業で、砂糖も添加物も使わない飴ということで、 噺家さんから歌手の方まで愛用されているようです。 少し西へ歩くと寺町という、大きなお寺ばかりが集まる 区域が有りますが、今回はあまりお寺へは立ち寄らず、 尼信会館と、尼信世界の貯金箱博物館へ向かいました。 尼崎に本店があります、尼崎信用金貨は、関西人なら 『アマシン 僕らの 貯金箱』・・・ と言う、コマーシャルを思い出す人が多いのでは ないでしょうか? 私も、尼信については、コマーシャルや、阪神優勝定期 預金の話題位しか知らないのですが、今回、会館や 貯金箱博物館などの中に入り、展示内容だけでなく 受付の職員の方に大変良い印象を覚えました。 【尼信会館】 「尼信会館」は、尼崎信用金庫が創業80周年に記念事業 の一環として、地域の発展と地域文化向上のために、 平成13年6月1日に開設されました。 尼崎城の外壁をイメージし、歴史的に貴重な資料を数多く 展示するとともに、施設の一部を地域の芸術、文化の発信 基地として利用できるスペースも兼ね備えた建物になって います。 私も今回が初めての事で、怪しげなおじさんの一人では 少し入りにくい雰囲気がありましたが、思い切って 扉を開けました。 す…

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嵐の聖地・櫻井神社(尼崎)

再建された尼崎城の公園内にある、図書館の南側に 櫻井神社がありました。 あとで調べますと、この神社は、その神社名から、アイドル グループの”嵐”のメンバーの桜井君になぞらえて多くの 女性ファンがやってくる神社だということでした。 私は、全然知らずに、何時ものようにただ目についたので、 どいう処か、少しお詣りでもと思い、境内に入りました。 【櫻井神社】 本殿側の裏手にも神社の入り口がありましたが、南に 回って表側から境内に入りました。 拝殿 本殿 【神社由緒】 当神社は、明治15年、尼崎城内に建立。 櫻井松平の祖、信定公は、戦国の世に勢力拡大に尽力、 三河安城にその基盤を築かれた。 当時の世のならいで、七代目忠頼公が、28才で亡くなり、 家が断絶するが、八代目忠重公の努力と徳川家康公の はからいで、お家再興がかなう。 十代目忠喬公の御代、遠州掛川より尼崎城に移封。 即ち尼崎初代の城主となる。 代々の城主は文芸に優れ、中でも尼崎三代目城主忠告公 は亀文と号して、「まづ霞む竈々や民の家」の一句を 境内石柱に残されている。 最後の城主忠興公は、明治10年の西南戦争で敵味方区別 なく戦傷者を看護され、これが世界赤十字に認められ、 日本赤十字社の誕生を見るに至る。 ・・・随分、新しい神社ですね・・・ 【御祭神】   櫻井信定公…

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尼崎城

そろそろ梅雨の季節になって来ました。 関西でも、あと数日で梅雨入り宣言がなされるのでは ないかという頃、晴天の日を見つけて、膝痛をかばい ながらではありますが、少し歩いて来ました。 特に目的もなかったのですが、何となく尼崎に向かい、 平成の尼崎城を見て・・・見るだけで入館せず・・・ 阪神尼崎駅の界隈をぶらぶら楽しみました。 ・・何となく足を止めたところは、尼崎城~櫻井神社 ~尼信会館~尼信世界の貯金箱博物館~寺町の お寺~貴布祢神社~等々・・ また、少しずつスナップショットなどを掲載しますが、 まずは、個人の尽力で建てられた尼崎城天守閣から のお話です 尼崎城は大阪夏の陣後、1617(元和3)年、江戸幕府 は、直割地とした大坂の西の守りとするために譜代大名 の戸田氏鉄(うじかね)に築城を命じる 約300メートル四方、阪神甲子園球場の3.4倍に相当 する広大な敷地に建てられた城は、3重の堀に4重の 天守という「5万石の大名としては立派過ぎるお城 だった」という。 このことは、幕府がいかに尼崎を重要視していたかが 窺われるところです。  尼崎城は戸田氏、青山氏、松平氏と代々譜代大名 が藩主を務め、尼崎藩政の中心にあった尼崎城だが、 明治6年に廃城。 建物は建材として街の整備に使われ、堀も埋められて しまったため、地上部分の遺構はほとんど残らなかった。 そんな尼崎城の再建を申し出たのが、尼崎市で 家電販売店の…

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甲山神呪寺

西宮の山手に、お椀を伏せたような美しい形の山が見えますが、 その特異な形から色々な伝説が伝えられています。 その伝説の一つが、190年ごろに、神功皇后が平和を祈願 して、頂上に金の兜を埋めたという話。 また、昔、頂上に松の木が二本生えており、兜の様に見えた ことから・・等々言われています。 標高は309Mほどですが、その形から非常に目立つ山です。 そして神呪寺は、この甲山の中腹200Mの高さにあり、お寺 の境内から眺める大阪平野から大阪湾にかけての解放感は 素晴らしく大変気持ちの良いところに造られています。 (曇り空ですが、梅田方面を見たところ) (境内から山門を経て、遠くに大阪湾が見えています) 甲山神呪寺 真言宗  天長八年(831)十月十八日、弘法大師空海を導師に迎えて 本堂を落慶。 淳和天皇の妃であられた眞名井御前は、この地で満三年間 の修行を経て、同日、弘法大師より剃髪を受けられて、如意尼 という僧名を授かった。 数年後には当地に淳和天皇が行幸され如意尼と相見られた と伝えられています。 本堂 御本尊   如意輪融通観世音菩薩 天長七年(830)、弘法大師が如意尼のお姿を写して桜の木に 彫られたという秘仏。 河内の観心寺、大和の室生寺の如意輪観音とともに、日本 三如意輪といわれる。  五月十八日に御開帳                  …

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北山公園から甲山神呪寺(1)

五月最終日は曇り空でしたが、久々に九州宮崎からの 友人と夙川上流の、北山公園方面のハイキングを楽しんで 来ました。 膝も心臓の調子も今一つで、少し躊躇するところがあった ハイキングですが、新緑の山道を歩き、神呪寺の 融通如意輪観音さまに参拝するころには、胸の痛みは 忘れていました。 膝の痛みは、歩くたびに絶えず気になるために、忘れる ことはありませんが、胸痛が気にならなくなったことは 収穫でした。 歩いたコースは、9時30分に阪急夙川駅で待ち合わせ。 苦楽園口まで電車。 苦楽園口から夙川左岸に沿って上流に歩き、銀水橋から 北山公園の山道に入る。 北山公園の大きな岩(イワクラも?)を楽しみながら 北山貯水池へ。 ここで12時30分頃になったので昼食。 北山公園から見た甲山 水分地蔵 お堂内は見えません 北山貯水池 その後、甲山神呪寺(かぶとやまかんのうじ)参拝。 参拝後、山門をくぐり抜けて、旧参道の坂道を下り 阪急甲陽園駅まで歩きました。(到着は2時40分ころ) 甲山神呪寺の記事は次回・・・・・・・つづく・・・・

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磐座と琴弾の滝

天石門別神社拝殿での不思議体験は、聞こえていた 子供たちの様な声が、かなりの大きさだったので、気に なりながら拝殿から本殿裏手に回り、階段下の旧社殿跡・ 磐座を経て、琴弾の滝に向かいました。 本殿から滝までは二~三分位でしょうか、本来は この滝が御神体でなかったのかと感じました。 磐座は古代に於ける祭場の跡として代表的(2,000年以上 経っているそうです。 薬師寺慎一氏の『祭祀から見た古代吉備』(吉備人出版) のなかに、宮司さんから寄せられた石積の話が載せられている。  「私の家は代々宮司職を世襲しており、私は第69代 めに当たります。 曾祖父中川寛(明治38年没)が残した記録によれば、250年 ほど前、平らな岩があり、人がそれに腰掛けて弁当を食べた ところ、神罰があった。 そこで岩の周りを石で囲んだのだそうです。 これが今の石積みで、中にある平らな石がイワクラです。 なお、御祭神の天手力男之命はこの岩に乗って飛んで 来られたと伝えられています。」  また、元禄4年(1691)成稿の美作国の地誌『作陽誌』 には、この石積は「猟師塚」で、天石門別神がこの地に 鎮座したときに案内した猟師の塚、あるいは国司の墓と 伝えられ、造られたのは近年のことなりと記されている。 池の跡 琴弾(ことびき)の滝 落差13m、幅5m 滝は2段からなり、上の滝を雄滝、下の滝を雌滝と呼ばれ…

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和気神社

和気清麻呂は、弓削道鏡の陰謀を砕いた道鏡事件で 日本史の授業でも名前が出てきますが、備前国藤野郷 (現在の和気)の出身です。 その和気氏の氏神はじめ、和気清麻呂と広虫を祀っている のが和気神社です。 【弓削の道鏡事件とは】 称徳天皇(孝謙女帝重祚)が寵愛する道鏡を皇位に つかせると天下泰平になるという、宇佐八幡宮の御神託 があり、その神託の確認する役目を帯びて宇佐に向かった のが和気清麻呂です。 ・・この神託そのものが道鏡の陰謀によるでっち上げのよう ですが・・さすがに称徳女帝も、どこから降って湧いたか 分からない一度の神託では、他の公家達の理解が得られない と思ったのか、天皇の女官であった和気広虫を宇佐に派遣 しようとします。 だが、この広虫さんは体が病弱で余り強くないため、弟の 清麻呂を代役に立てたということです。 ・・こういう処から、道鏡からの賄賂を持ち出されるやり取り、 そして宇佐八幡での神託を受ける巫女たちとの駆け引き、 更に道鏡の命を受けた刺客などなど・・・・・ 講談話にもなりそうな話で面白い・・・ それで!!!! 【八幡大神の神託は】 「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。 無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」 を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告。 清麻呂の報告を聞いた称徳天皇は怒り、清麻呂を 因幡員外介に左遷、さらに別部穢麻呂(わけべ きたなまろ)と改名さ…

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和気の由加神社

備前焼の里を後にして、和気神社を目指して走っていると、 金剛川の川沿いに大きな神社が目につきました。 特に急ぐこともなかったので、境内の広い駐車場に車を 停めて参拝。  この頃には日差しも強くなり、少ない日陰を 探して車を停めました。 由加神社 随神門 拝殿 神社の説明の中には、次のように占断を得意にされて 力を入れておられるように思いました ☆彡☆彡☆彡 江戸期より家相を専門に診断しており、秘伝として伝わる 家相方位専門のご祈祷により陰陽五行の災難を封じます。 四柱推命にて、家を建てる時期などを判断し、家族の方皆様 の運勢も診断いたします。 当神杜には、太古のご祈祷が数多く伝えられており、妊婦の 方で、つわりがひどい、妊娠して体の詞子が悪い方は閉死よけ をいたします。 また赤ちゃんの夜泣き止め、カンの強いお子様の蟲封じも いたします。 本殿 本殿裏で! 獅子(麒麟?)の彫刻 境内末社 日本の各地に由加・由賀・瑜伽等々、【ユガ】と言われる神社や お寺がありますが、何か繋がりがありそうですね? 考えても分からないので、和気神社へ向かいます!

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伊部の忌部神社

備前焼の焼き物も楽しめた天津神社から、さらに山の中に 入ると、樹々に囲まれた境内にひっそりと忌部神社が 鎮座しています。 天津神社横から続いている参道の坂道を登っていくと 途中には国指定の備前陶器窯跡(北大窯跡)があり、 付近の看板には、[陶器の破片等の持ち帰りは禁止]と いう注意が書かれていました。 忌部神社境内と拝殿  人気のない山中で境内は樹々に囲まれていますが、湿った  感じはなく落ち着いた静けさがありました  ゆっくり天津祝詞を唱えて感謝参拝 陶祖 忌部神社の札 祭神 由緒 御祭神:陶祖・天太玉命 祭礼日:5月15日 由緒  「伊部」(いんべ)の地名の由来となっている神社で、創建は  不詳  窯元六姓「金重・森・木村・大饗・寺見・頓宮」の窯元達が  備前焼の末永い繁栄を祈り、この社を祀りました。  天津神社の境内末社で、昔は小さな祠でしたが、昭和4年  伊勢神宮より摂末社をいただき伊勢から片上湾へ船で  運ばれ、そこから行列をなしてこの地に建立されたという  ことです。 御祭神の天太玉命は、天照大御神岩戸隠れの際、には 鏡を差し出し、天照大御神の関心を引き出す役目を与えられて います。 また瓊瓊杵尊の天孫降臨に従った神で、宮中祭祀を司る 忌部氏の祖と言われています。 忌部氏は阿波・讃岐・紀伊・筑紫等の国々で知られて いますが、…

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備前焼の里 天津神社

初夏の山々が青葉若葉で濃淡のグラデーションを見せる 美しい季節になり、更にここ数日は雲一つない好天が続いて います。 以前なら、ハイキングに出かけたくなるところですが、 最近はひざ痛に悩まされて一時間も歩くと体がガチガチに なり、かえって体のバランスを壊す心配が出ています。 それで、ついつい単車や車に頼る様になっているのですが、 行き先を忘れたり、逆走したりしないでいる間に、岡山の 山間部を走ってきました。 先ずは、備前焼の里として知られる、JR伊部駅を目指し、 駅に車を停めて、天津神社・忌部神社と参拝し、そのあと 和気市の由加神社から和気神社へ。 和気神社から美作の山間部に入ると、出会う車も少なくなり、 気持ちよいドライブで岡山国際サーキット場脇を走り、滝宮 の琴弾滝まで走りました。 天石門別神社に参拝した後は、八塔寺村を通って帰路につき 9時間ばかりのドライブと神社参拝を楽しんで来ました。 まずは備前焼の里 天津神社 JR 伊部駅付近は備前焼の窯元が、それぞれの特色を 競い合うように建ち並んでいます。 伊部駅 特に、旧山陽道沿いには多くの窯元が店舗を構え、古く からの風情を感じさせてくれています。 その旧山陽道沿いに鳥居を構え、少し山に入ったところに 備前焼の里伊部を見守る様にして天津神社が祀られています。 備前焼の立派な狛犬 天津神社由緒 …

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荒田八幡神社 平頼盛邸跡

現在の神戸大学医学部附属病院と、有馬街道を挟んだ 西側に荒田八幡神社が鎮座しています。 今は、低くなった西側から見ると一段と高くなった場所 にあります狭い境内の神社ですが、当時は清盛の 異母弟、池の中納言と言われた平頼盛の山荘があった ところと言われています。 元は、近くにあります安徳天皇の菩提を弔う、宝地院と いうお寺の境内にあった八幡社を明治31年、神仏混交を さけてこの地で熊野権現を祀っていた高田神社と合祀し 荒田八幡神社としたということです。 宝地院                平家滅亡から約百年後の弘安2年(1279年)に、安徳天皇 の御菩提を弔うため智鏡を開基に創建されています。 荒田八幡神社 福原遷都八百年記念碑 1180(治承4)年6月3日に三種の神器と文武百官を 従えて福原の地に着いた安徳天皇は、まず、この付近に 山荘を構えていた、平頼盛公の屋敷を行在所(皇居)と します。 ・・といっても安徳天皇が荒田の地にいたのは1日だけで、 翌日には「雪の御所」と呼ばれる平清盛公の邸宅に移り、 入れかわりに高倉上皇がこの荒田の平頼盛邸に居を移して います。 安徳天皇行在所跡碑 高田稲荷社

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平野 祇園神社

神戸市兵庫区の山手、有馬街道が市街地を離れて山に 入るところの高台に平野の祇園神社が鎮座しています。 この祇園神社を目指し、神戸駅から市営バスに乗り、平野 下車。 平野の有馬街道の交差点には、若かりし日の平清盛の像が ありました。 京の都方面をさし示しているように思いました。 この下祗園町や上祇園町、更には雪の御所町という辺りは 夢野方面や有馬方面に向かう古道が通り、清盛の別荘が あったところと言われています。 丁度、祥福禅寺の雲水が托鉢に出ていました 賽神の松跡  古道街道沿いにありました。 賽神の松跡から祇園山(祇園神社)方面 六道の辻 祇園神社 祇園神社由緒   869年(貞観11年)、京で鴨川が氾濫し疫病が蔓延したとき、 行疫神として名高い素戔嗚尊を姫路の広峯神社より北白川 瓜生山の東光寺に勧請することとなった。 その時、広峯社の神輿が平野の地で一泊した地に社殿を建て、 分霊を崇め奉ったところが祇園神社創建の由来とされている。 素戔嗚尊は仏教で祇園精舎の守護神とされている牛頭天王と 同一視されたため、祇園神社はまた天王社とも呼ばれた。 広峯社から東光寺に勧請された牛頭天王の分霊は、のちに 八坂の地に遷宮され「祇園感神院」(現在の八坂神社)となった。 平清盛と平野の祇園神社 本殿 …

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極楽山浄土寺 小野市

仏師 快慶による国宝の阿弥陀三尊像参拝のため 小野市の淨谷町まで車を走らせました。 この浄土寺阿弥陀堂(国宝)の堂内真ん中に、高さが 5,3メートル(総丈8、3メートル)の阿弥陀如来と、 高さが3,7メートルの観音菩薩・勢至菩薩が脇侍として 立っておられます。 (堂内写真撮影禁止ですので、パンフレット等の写真です) この阿弥陀三尊は、背面となる西側が蔀戸になっており、 夕方になると西陽が差し込み堂内が荘厳な光景を現出 するそうです。 さらにこの西陽は床面に反射して屋根裏に当たり、その光が 御本尊に降り注ぎ赤く染めます。 また、直接入った光は、足元の雲座部分を霞ませて、巨大な 阿弥陀三尊が来迎する姿を光で演出する仕組みが造られて いるということです。 季節により、光の印象も異なるそうで、一度見てみたいですね! 阿弥陀堂(国宝) (北側)  (正面東側)  (南側) 水向石 八幡神社 拝殿 拝殿内から本堂(薬師堂)を見る 拝殿内から阿弥陀堂を見る 拝殿内に掲げられていた相撲番付  横綱 羽後 照国   越後 羽黒山 の名前が! 本殿   鐘楼 経蔵 開山堂(重源上人)(左手が本堂の薬師堂) 本堂(薬師堂)   本堂は…

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浅草神社 御朱印頒布見送り

ねとらぼ5月12日(日)記事に次のような事が書かれています ので、ご存じの方も多いかと思いますが転載しておきます。 「御朱印フリマ転売」「職員や巫女に暴言や暴力に近い行為」  浅草神社、三社祭特別御朱印の頒布見送りを発表 5/12(日) 18:09配信 ねとらぼ 「三社祭」で知られる浅草神社  毎年5月に行われる東京都台東区の浅草神社での例大祭 「三社祭」を前に、浅草神社が「三社祭特別御朱印」の頒布を 見送ると発表しました。 理由は御朱印を求める参拝客のマナー違反。  発端は4月27日から5月6日まで浅草神社が行っていた「平成」 「令和」の特別御朱印を頒布したときの出来事。 事前の告知通り、日にちごとに数量が設けられていたものの、 予想を大幅に上回る参拝客が連日押し寄せたことから多くの人 が御朱印を受けられないという事態になったと言います。  浅草神社としては、お参りした全ての人に御朱印を頒布したい 意向があり、整理券の配布や参拝証明書を発行するなどの対策 を行ったものの、それなりの数の参拝客が訪れればどう対応して も相応の時間がかかってしまいました。  そうした状況について浅草神社は、御朱印を求める人の中には 8時間並んでたった1枚の通常御朱印をありがたく受ける人もいれ ば10分でも待たされれば文句を口にする人もいたと言い、参拝客 から説明を求められれば事情の説明をしていたと振り返ります。  この…

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多聞六神社

多聞寺前を流れる川沿いを西側に数分歩いた高台に鎮座。 『兵庫県神社誌』によれば、「貞観5年(863)の創建にして、 明治7年(1874)2月村社に列し、同23年(1890)7月に 社殿焼失するも直ちに再建す。 同37年(1904)7月多聞鎮座の無格社(兵庫県神社誌)・ 日吉神社を合祀せり」とあるが、 多聞寺の記録では、「多聞六神社を貞観5年の創建と するのは誤りで、同年に創建されたのは、多聞寺(貞観3年、 慈覚大師による建立)の鎮守神である大山咋神を祀る 『日吉神社』と称するお社である」、 さらに、「近世に入り氏神観念が大きく変化し、多聞寺の 鎮守神と多聞村の氏神とを混同したものと思われる」と記され ている。  しかしながら、当社の祭神は西舞子1丁目に鎮座する六神社 と全く同じであるがため、江戸時代に明石の岩屋神社より ご分霊を勧請し、それぞれの地に奉祀したものであろう。  多聞六神社は安永6年(1777)、西舞子の六神社は 元禄2年(1689)と伝えられている。 阪神淡路の大震災で大きな被害を受けたということです。

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吉祥山多聞寺

神戸垂水の多聞寺は天台宗の古刹です。 貞観2年(860年)ごろ清和天皇の命で、天台宗の僧、 慈覚大師円仁(794年- 864年)によって開かれたと伝えられる 創建後120年で天災のため焼失し、花山天皇の命で 明観上人により再興された。 現在の本堂は正徳2年(1712年)に再建されたもの。 かっては、広大な寺領を持っていたことは、現在残る地名 からも伺うことができる。 私が参詣に訪れた時には、境内の整備工事が行われて いました。 仁王門前の文殊堂(吉祥文殊)   大聖福智円満文殊師利菩薩   オンアラハシャナ 仁王門 ”誰だ!” ”押忍!” 仁王門をくぐるとカキツバタが咲いていました(弁天池) 弁天堂 地蔵菩薩像 本堂 本尊は多聞天 【毘沙門天】 左方のお堂は阿弥陀堂です 阿弥陀堂 宝篋印塔 大黒天   大福徳自在円満菩薩   オンマカキャロヤソワカ 御朱印 毘沙門天の朱印にはムカデの印が押されています (毘沙門天のお使い) また、境内では、天台声明の声が流れていました。 その声は、天台僧の声明とグレゴリ聖歌とがコラボレーション したもので、聞いていても心地よい響きがありました。 少し興味を持ちましたので、CDを買い求…

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龍華山転法輪寺

令和になり、巷の浮かれ騒ぎに何となく違和感を覚えて いましたが、ブログネタも無くなりましたので、覚えたての 違和感を蹴飛ばし、近場のお寺さんで令和の御朱印を いただいて来ました。 参拝したのは、名谷の転法輪寺(真言宗)と多聞台の 多門寺の二ヶ寺と、多門六神社と須磨の綱敷天神さん です。 先ずは、転法輪寺ですが、今迄にも弁財天の池に 蓮の花が咲く季節に何度か訪れていますが、御朱印は 一度も頂いていませんので、丁度よいきっかけになりました。 転法輪寺への旧参道 旧参道の地蔵堂 境内絵地図 本堂への参道 転法輪寺縁起 寺伝によると、平城天皇が即位の後、病を得たため勅願で 在原行平が大同元年(806年)開創。 創建時は東垂水に広大な寺域を誇ったそうで、当初は「大同寺」 といい、延喜十年(910年)宇多法皇が行在、寺号を「転法輪寺」と 改めたという。 その後度々の火災天災を被り各地をさすらい、貞応二年(1223年) 現在地に移りその後荒廃。 近年になって再建がはじまり、昭和六十一年(1986年)本堂、 太子堂、弁天堂などが再建された。 ・・・・昔は広い境内に多くの堂宇と塔頭があったようですが、 荒廃。 朱印をいただくときにお話を聞けました、ご住職の お話では、戦後に境内地の一部を進駐軍に接収されて 農地として取られたのを、買い戻すのに大変だったという 話を聞きました。 …

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徳本寺

法然上人の再来とうわさされた名僧・徳本上人の百回忌 を記念して大正五年に建立されたそうです。 寛政10年(1798年)に住吉村の名士・吉田喜平次に頼まれ 神戸、住吉村の赤塚山に庵を構えて、三年間の間、村人 の教化と修行をされたところです(現在 神戸市東灘区 住吉山手6-1-2) この徳本上人は浄土門の浄土宗世捨派に属すると言われ、 その念仏は、徳本念仏と称され、木魚と鉦を激しくたたく という独特な念仏だそうです。 また、数学者の岡 潔博士が心酔、絶賛されていた 浄土門の山崎弁栄上人が、徳本上人のことを 『法然上人以来、徳本行者ほど内感豊かな念仏者は無い』 『徳本行者のような悟りをお開きになったお方は古来ない。 その三昧は、深くして深かった。』 『古来、三身四智の仏眼を体得されていたのは、 釈尊→善導大師→法然上人→徳本行者である。』 と、大絶賛されています。 尼崎市の資料によると、以下の様な説明がされています。 …… 徳本上人 1758年(宝暦8)6月22日 - 1818年(文政元)10月6日 念仏の行者。紀伊国日高郡志賀村久志(現日高町)の人。 大和・河内・摂津、のち関東・北陸にわたり行脚して道俗を 化し、ついに江戸小石川の一行院で寂した。 これより前、1798年(寛政10)、菟原〔うはら〕郡住吉村 呉田(現神戸市東灘区)の吉田道円が父のため徳本を 己が地の灘赤塚…

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須磨寺亜細亜万神殿法要

今日、四月二十五日は、ネパール大地震から4年経ちましたが、 神戸の須磨寺亜細亜万神殿にて、須磨寺管長による 慰霊祭が行われていました。 午前11時から一時間程の法要でしたが、参列している 僧侶(真言宗)の唱えるお経が、普段は、あまり聞いたことが ないような真言マントラを色々唱えていました。 日本では、ネパールの大地震のことは忘れている人も多い ようで、一般の参列者は殆どおられなかったのが寂しく 感じました。 亜細亜万神殿のことは、今までにも記事にしています。 https://singon1koumyou.at.webry.info/201604/article_12.html https://singon1koumyou.at.webry.info/201803/article_2.html https://singon1koumyou.at.webry.info/201803/article_3.html 今日の法要のスナップです

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徳本上人の修行地

以前、長田の駒ヶ林にあります、徳本上人の六字名号碑 を紹介しましたが、その江戸時代の念仏者で厳しい修行を された徳本上人の修行地が神戸の住吉の山手にありました。 現在の白鶴美術館の西方。 阪急御影の山手で、住吉山手 という高級住宅街がある坂の街に、徳本上人座禅石や弓弦羽 の滝などの滝行地があります。 この付近は、昔は赤塚山という樹々の茂る山中(昔の六甲山は ハゲ山?だったとも)だったようなのですが、今は、すっかりと 住宅地として開発され、急な坂道ばかりの街が、山の面影を 残しています。 そのような住宅地と変貌を遂げた一角に”徳本上人座禅石” という場所がありました。 初め、付近と思われるところを歩いて探しましたが分からず、 公園などで犬を散歩されていた人に聞きましても知らないよう でした。 地元の人でも関心がないと目につかないようですね。 昔は、赤塚山と言われていましたが、徳本上人の謂れから 上人山などとも呼ばれていたようです。 徳本上人座禅修行地 徳本上人の石像は、割と新しいもののようで、風貌は、上人と 同時代の人が作った木造とは、かなりかけ離れた姿だと思い ました。 徳本上人木像 (こちらの木像は、京の仏師、西田立慶が彫ったもので、 享和初期(1800年代初め)の作といわれます。  かねてより徳本上人を敬服していた立慶は、箕面の勝尾寺で 上人の姿を目に…

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山田の若宮八幡宮神社

本住吉神社の参拝後、渦が森台行きのバスに乗り赤塚橋 下車。 坂道ばかりの住吉山手の住宅街を歩き、徳本上人修行地 を探しました。 今でこそ高級住宅地に変貌し、昔の面影は全くありませんが、 急な坂道が、かって赤塚山といわれた名残を残していました。 徳本上人の座禅修行地から弓弦羽の滝、そして若宮八幡宮 から徳本寺とあるきました。 まぜは、若宮八幡宮神社から書いてみます。 東灘区の西寄りを流れる住吉川に沿った西側は、昔は 住吉村と呼ばれていました。 その中でも山に近いところ、現在の白鶴美術館辺りから 西側が字 山田(住吉山田)で、その名の通り山手の農業地 であったようです。 また、六甲山系から流れ出す住吉川の急流を分水し、酒造り のための精米、製粉、製油などのための水車が多く建てられて いた地区でもあります。 現在は農地も水車も姿を消し、南向きの静かな斜面に住宅が 建ち並んで、その中を水路だけがかつての面影を残しながら 流れている、そういった風情の中で、小さいながらも地元の 住民たちに大切に守られていることが良く分かる神社が 若宮八幡神社です。 地区の皆さんが大事に守っておられる様子が良く分かる 境内です 創建 不詳 祭神 応神天皇 仁徳天皇 由緒 住吉川にある、白鶴美術館の横にあります。   此のお宮は山田地区と言われる此の地域の鎮守で往古の   主邑から…

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本住吉神社 (東灘)

今日は、JRの住吉駅で降り、本住吉神社に参拝。 その後、渦が森台行きのバスに乗り、白鶴美術館近くの 徳本上人の旧跡を巡ってきました。 まずは、JR住吉駅西すぐの本住吉神社に参拝です。 国道2号線側から見たところ 御祭神:  底筒男神、中筒男神、表筒男神、(住吉三神)        神功皇后 配祀:   天児屋根命、大山津見命 本殿 創建年代:神功皇后摂政元年(201) 日本書紀によれば、神功皇后が三韓征伐より凱旋し 難波の港へ向かう途中、船が前に進まなくなりました。 そこで、務古の水門に戻り、神意を占ったところ、 天照大神は広田(廣田神社)に 稚日女尊は活田(生田神社)に 事代主尊は長田(長田神社)に 祀れとの託宣がありました。 さらに住吉三神からは大津渟中倉之長峡に祀るよう 託宣を下されました。 神託により住吉三神を祀ったと 記される「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」 の地が当地であり、当社(本住吉)が住吉三神鎮祭の根源 であると伝え、そのために古くから「本住吉」と呼ばれる・・・・と 「大津渟中倉之長峡」の地は現在の住吉大社であるとする 説が有力であるのでが、当社(本住吉)では住吉大社も当社 からの勧請であると主張しています。 本居宣長も本住吉神社の主張を支持しているそうです。 住吉三神はまず神戸の住吉の地に祀ら…

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加東市 播磨安国寺

安国寺という名前のお寺は全国にあるそうですが、その 理由があります。 全てがそうなのかどうか、分かりませんが、【安国寺】は、 南北朝時代前後の多くの戦乱の中でで亡くなった 兵士など戦死者の供養や全国安穏祈願を願った 夢窓国師が足利尊氏・直義兄弟に勧めて全国に 造られたお寺ということです。 聖武天皇発願の、全国の国分寺・国分尼寺の想いは 鎮護国家・国家安穏でしたが、慰霊・供養と平穏を 願った夢窓国師の想いの違いはありますが足利尊氏達 も、その想いを受け、全国一国一寺の建立を願い建て られています。 その為○○国安国寺ということで区別しています。 ですから、ここ加東市の安国寺は、播磨安国寺とよばれて います。 【播磨安国寺】 臨済宗妙心寺派 東渓山安国寺 開山  固山一鞏禅師 本尊  十一面観世音 元々は東条川を見下ろす新定の高台にあったそうですが、 度重なる戦乱などの火災を受け、現在は新定の麓に移転。 建物も明治時代の再建。 【嘉吉の乱と播磨安国寺 義教首塚】 嘉吉元年(1441)6月24日播磨、備前、美作3国の守護 赤松満祐は京都の私邸(京都西洞院二条)で室町幕府 6代将軍足利義教公を殺害します。(嘉吉の乱) さらに将軍の首級を奉じて播州河合(小野市)の堀殿城 に帰ります。 そこから足利ゆかりの安国寺で盛大な法要を営んで葬った と伝えられています。 …

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加東市 若宮八幡神社

東条湖方面をドライブしていた時、道路沿いに重要文化財 の看板を見つけ、寄ってみました 神社の創建年代は不明。  本殿の板壁に残された墨書から 永禄七年(1564)の再建とされる。 本殿が国の重要文化財に指定されている。 周辺は酒米、山田錦の特産地。 主祭神    誉田別命    配祀神  大歳大神 若王子大神 彦狹知命          素盞嗚命 少彦名命    

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駒ヶ林の徳本上人名号碑

長田区の駒ヶ林蛭子神社の付近には、あまり一般的では ないかも知れませんが、興味深い史跡が沢山見られます。 その中で、『徳本上人名号碑』について書いて見たいと おもいます。 長田区駒ヶ林の会社に挟まれた駐車場の奥に、この地で 亡くなった平家の武将達をを供養した、小さな石塔などと 一緒にお堂の中に置かれています。 しかし残念ながら徳本上人の名号が書かれた石塔は、 赤い前掛けが掛けられていて直接見ることができません。 この徳本上人について、私自身あまり知らなかったのですが、 この機会に調べて見ました。 徳本上人は江戸の中期ごろ大変な修行をされ、南無阿弥陀仏の 念仏を広められた浄土宗の僧侶でした。 https://www.wakayama-kanko.or.jp/kataribe/07/detail_04.html (和歌山観光連盟) (略 歴)・・・ 徳本上人は、宝暦8年(1758)6月22日、日高町志賀に 生まれました。 数えでわずか2歳の年、姉に抱かれながら、月に向かって 「南無仏」と唱えたとか、4歳のころ、仲のよかった隣家の 子どもの急死に無常を感じ、常に念仏を唱えるようになった とかの逸話が残っており、幼いころからすでに強い出家の 意思を抱いていたようです。 天明4年(1784)に出家した後は、草庵に住み、1日1合 の豆粉や麦粉を口にするだけで、ひたすら念仏を唱え続け ました。 …

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