中山寺奥ノ院ハイキング

朝から雨模様でハイキングの中止も考えていましたが、 九州の宮崎から久し振りに来られた知人の思いが通じ、中山寺 に着いた時には雨が上がっていました。 その後は、雨に降られることもなく、順調に山道を登り、1時間 程かけて奥の院へお参りすることが出来ました。 歩いたコースとしては 阪急中山観音駅(10時30分)~中山寺~中山寺奥の院 (食事休憩)~中山~奥の院~阪急清荒神駅(15時30分) 全体的に足元の歩きにくい山道が続きますが、ゆるい登り道 で、大きなアップダウンもありません。 そして、都会の近くですが、深い山に入ったかのような山道 が続きますが、途中1丁毎に小さな観音さんとお大師さんの 石像が祀られてあり、参拝者を励ましてくれています。 中山寺から奥の院までは18丁の丁石がありました! 中山寺  初めてのお参りでしたが、時間がなくて、少し 見ただけで、奥の院へと向かいました。 お天気の悪い平日ということでしょうか?参拝者は 少ない様に見えますね 五百羅漢堂 奥の院へ向かう山道 夫婦岩 眺望 小さな水源? 丁度この場所まで来た時に、頭上に急な風が吹き、 パラパラパラという音がしました。 同行の人が、アラレ?と言いましたが、どんぐりの実が 沢山落ちてきていました! その時、直ぐに”自然霊のいたずらか”と!?思いましたが、 後で、奥の院の大悲水の説明…

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修法が原から布引滝(2)

中国(唐)より帰国した弘法大師が、目的を達成し、無事の 帰国を果たしたお礼参りに、この地に来たり、修法をした 処という事です。 修法が池 蛇ヶ谷 『その昔(神護慶雲年間)、和気清麻呂公が塔を建立するため、 再度山へ登っていたとき、道鏡の放った刺客に今にも殺され そうになった。 そのとき、どこからともなく大きな龍が現れて清麻呂公を 危機一髪のところで救出した。 清麻呂公は、それに感謝し、この山の頂上に大竜寺という名の 寺を建立したのである。』 大龍寺縁起には、次のように記されています 『神護景雲2年(768)、称徳天皇の勅をうけた和気清麻呂公は、 摂津の国に寺院建立の霊地を求めて当地の山中まで来られた ときのことであります。 公を暗殺しようとしてつけ狙っていた僧道鏡の刺客は、忽然と 現われた一匹の大蛇に驚いて一目散に逃げ帰ってしまった。 危ないところを助けられた清麻呂公があたりを見まわしてみると、 大蛇が消えた跡に「聖如意輪観世音菩薩」が立っておられた のであります。 霊験を感じられた公は、早速この地に伽藍を建立され寺名を 「大龍寺」と名付けられました。  また延暦23年(804)、入唐される弘法大師は、旅の所願成就を 御本尊に祈願されました。 その甲斐があって唐の長安で青龍寺の恵果和尚より秘密の大法 を授けられ、大同元年(806)に無事帰国されたのであり…

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再度山大龍寺ハイキング(1)

秋晴れの暖かい日に恵まれ、テクテクと神戸の背山歩きを して来ました。 最近は膝の痛みがひどくなるばかりで、長距離や上り下りに 難儀することばかりなので、出来るだけ歩きやすいコースを 選んでいますが、それでも痛みだけはどうしようもありません。 今日も帰宅後は、膝の疼きと腰のだるさを感じています。 今日歩いたコースは JR元町駅から諏訪山西筋の大師道を歩いて大龍寺へ。 大龍寺の奥の院から再度山の山頂 再度山の山頂から下り、弘法大師修法の地から修法が池。 和気清麻呂公の伝説がある蛇が谷から市ケ原へ。 市ケ原から布引の滝を見て新神戸駅。 というコースでした。 今迄にも何度かブログ記事にしていますので、重複する 様な事になるかも知りませんが記録的に書いています。 大師道 大師道の町石(丁石)は20町(丁)から始まっていました 大龍寺 大龍寺略縁起 神護景雲二年、称徳天皇の勅をうけた和気清磨呂公が、 摂津の国に寺塔建立の霊地を求めて当地の山中まで 来られたときのことであります。 公を暗殺しようとしてつけ狙っていた僧道鏡の刺客は、 忽然と現われた一匹の大蛇に驚いて一目散に逃げ 帰ってしまいました。 危ないところを助けられた清磨呂公があたりを見まわして みると、大蛇が消えた跡に「聖如意輪観世音菩薩」が 立っておられたのであります。 霊験を感じられた公は、早速この地に伽藍…

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須磨浦の背山を歩く

神戸の塩屋から須磨にかけては六甲山の西端になり、山並みが 塩屋の海に面して終わります。 この辺りの海岸線は古代の山陽道が通っていましたが、海が荒れ ると危険で歩けないようなところでした。 現在は山と海に挟まれた狭い場所に、山陽電鉄、国道2号線、JR線 が通っています。 この須磨浦公園から宝塚まで50Km程の六甲の山並みを歩く、六甲 全山縦走登山が毎年11月ごろに行われています。 早朝の5時頃から歩きだして、高取山・菊水山・鍋蓋山・摩耶山など の山を上り下りして、午後6時から10時頃に宝塚に至ります。 今日は、その一部、須磨浦の背山を歩きました。 鉢伏山=旗振り山=鉄拐山という200M前後の軽いハイキングです が、天気も良く、秋の風を心地よく楽しんで来ました。 須磨浦公園 山陽電鉄須磨浦公園駅 山上へ上るロープウエイがあります 歩いて鉢伏山を目指します ロープウエイの山上駅 鉢伏山山上付近 明石海峡大橋 須磨の海岸線 旗振り山付近 明石海峡から淡路島 旗振り茶屋 鉄拐山 高倉台から縦走の山並み 妙見堂方面への下りから鉄拐山山頂付近を見ると付近の木が切られて 明るく開けています  以前はもっと木が茂っていたのですが・・・ 妙見堂 毎日登山の署名所として、毎日多くの人が登って来ます 神戸の須磨長田方面 一の…

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古法華の石仏群

兵庫県加西市の古法華自然公園にあります、石仏を見てきました。 ここの石仏は、個人の多くの人達の想いを込めて彫られています。 どれもこれも良いお顔をされています。 ここが古法華と言われているのは、現在西国二十六番札所であります、 法華山一乗寺が元々あったところだからと言われています。 法華山一乗寺は、寺伝では孝徳天皇の勅願で650年に創建、開基は 法道仙人とされています。 創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山付近(古法華)に あったと推定されている。 笠松山の山麓には古法華石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財) があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われます。 現存する一乗寺の三重塔は平安時代末期の承安元年(1171年)の建立である ところから、その年までには現在地において伽藍が整備されていたと 思われるが、正確な移転時期は不明である。 では、古法華の写真を見てください! つり橋の下、がたがた道を通って公園に入りました 薬師三尊磨崖仏 六地蔵石仏 石仏の道 夫婦でしょうか? 年月を重ねた信頼と安心が感じられます! 見ているこちらの気持ちも静まってきます。 釈迦涅槃仏 十一面観世音 観音堂 お不動さんと役行者 布袋さん 宝船と七福神 阿弥陀磨崖…

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神戸森林植物園

神戸市の六甲山の山中にあります、神戸森林植物園まで、プチハイキング を楽しんで来ました。 北神急行の谷上駅から、山田道と言われる、昔の山道を一時間ほど 歩いて、森林公園に入り、紫陽花の花を見て歩きましたが、本来ならば この公園から、トゥエンテイクロスから市ケ原、布引滝を経て新神戸駅と 歩くところですが、夕方に用事があったために、公園から無料送迎バスで 北鈴蘭台駅に出て帰宅しました。 谷上駅から森林植物園への山田道の様子 森林植物園 園内はアジサイ目当てのカメラマンが沢山いました。 丁度、この山の上ではアジサイが満開でしたが、種類も多く楽しめる ところです 花の名前も分かりませんが、少し写真で見てください 池には白やピンクの水連が沢山咲いています  

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須磨寺の句碑(四)

須磨寺の山門付近から境内に建てられている数々の句碑や歌碑を 紹介してきましたが、今回の本坊前の句碑で一先ず区切りとなります。 青葉の笛碑    一ノ谷のいくさ破れ 討たれし平家の公達あわれ    暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛 この碑には楽譜とキーボードがついていますので、演奏することが できます。  今の若い人達は知らない歌だと思いますが、お年寄りには 懐かしいメロディで、よく聞こえてきます。   青葉の笛碑から本坊の方に入った左手に瀬川露城の句碑があり、右手側 には五十嵐播水の初大師の句碑があります。 瀬川露城の句碑    稲妻の ひと夜冷やして 須磨の海 瀬川露城は姫路の人で、明治15年豊岡師範の教師をやめて実業界に入り、 明治40年4月大津義仲寺無名庵第十五世となって正風会を創立。 ひところ須磨に住んだといわれています。 五十嵐播水の句碑    香煙に ふりこむ雪や 初大師 五十嵐 播水は兵庫県出身の俳人、内科医。本名は久雄。 姫路市鍛冶町に生まれる。野里尋常小学校、姫路中学校を経て1923年 に京都帝国大学医学部を卒業。 卒業後に松尾内科勤務を経て、神戸市立中央市民病院に勤務。同病院の 副院長・院長を1959年まで務めた人です。 土塀際に作られた流水のある小庭付近には、真鍋豊平の歌碑の外、 旭叟史や松尾芭蕉の句碑があります。 真鍋豊平の歌…

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須磨浦公園の歌碑

ここ最近は風邪を引き、殆ど引き籠り状態でしたが、今日は久し振りに 須磨浦公園へ足を伸ばして、公園内の歌碑を探しながらの散歩を楽しんで 来ました。 あいにくの天気でしたが寒さを感じない陽気が春の訪れが近いことを 知らせてくれているようでした。 では、まずは丁度春のうららかな雰囲気で良く知られている与謝蕪村の 句碑です。 与謝蕪村の歌碑     春の海 終日のたり のたりかな でもって、この場所から見た、少し早い春の海です 松尾芭蕉の句碑     蝸牛 角ふりわけよ 須磨明石 この須磨の地は、昔は摂津国と播磨国の国境でした。 その国境が現在砂防ダムの工事中のところです。 松笠 要句碑       視野一望 紀淡は近し山上の 潮南風に向きて胸張る 松笠 要は須磨の歌人  本名安水 弘 ぶらぶらと句碑を探しながら広い公園内を歩いていると、野生の橙?を 見つけました 正岡子規と高浜虚子の師弟碑       虚子の東帰に               ことづてよ 須磨の浦わに 晝寝すと  子規       子規50年忌               月を思い 人を思ひて 須磨にあり    虚子 (それぞれ自筆) 正岡子規は結核で、一時この須磨で保養していたこともあり、その関係から こちらに句碑…

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平 敦盛

一の谷での源氏と平氏の戦いの中で、平敦盛の最期の話は多くの人の こころに残っていることと思います。 敦盛は平経盛の子供で、この戦いの当時はまだ16~7歳頃だったようです。 (寿永3年2月7日旧暦) 現在では高校の2~3年生ごろの年頃です。 その上、美少年で笛の名手 ということで、熊谷直実も組み伏せたものの、その幼い姿と、己のが子の ことを思い出して、命を取ることを躊躇するのですが、味方が寄せてきたことで 心ならずも首を取ったという話です。 須磨寺の敦盛・直実の像 敦盛の画像 青葉の笛(太い方) 敦盛の胴塚と言われる五輪塔が須磨浦の西隅にあります すぐ前は国道2号線とJRの線路が通り、毎日、多くの車と電車が走っています。 須磨浦公園には敦盛の胴塚がありますが、須磨寺には義経が敦盛の首を 確認した”首洗いの池”そして首塚があり、いつもお香の煙が絶えることは ありません。 蕪村句碑  笛の音に波もよりくる須磨の秋 蕪村 また芭蕉は      須磨寺や 吹かぬ笛聞く 木下闇                               と読んでいます ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 平成29年3月4日は丁度旧暦の2月7日となり、敦盛卿の命日になります。 寿永3年(1184)か…

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一の谷逆落とし

最近、神戸での源平の戦いの史跡巡りをしています。 神戸の福原を中心に、東の大手口は生田川から生田の森には 平知盛・重衡。 北の守りは夢野から古明泉寺付近に備えて平通盛・教経、西の 搦手口は塩屋・須磨に薩摩守忠度と平家は軍勢を分散し防御陣 を築いていたようです。 そんな中、源義経は世に言う、一の谷(または鵯越)の逆落としの 奇襲攻撃を仕掛けたことで平家方が大混乱を来たしたという話です。 その時期が、、平安時代の末期の寿永3年/治承8年旧暦の2月7日 現行暦では1184年3月20日頃と言われています。 その一の谷の逆落としが行われたと言われている場所に出掛けて 来ました。 ・・・と言っても、この有名な”義経の逆落とし”が実際はどこの場所 のことなのかは諸説あるようです。 特によく知られているのは、神戸市兵庫区の鵯越付近、もう一つは 須磨区の一の谷の裏山付近、更には平家物語の創作説などが 言われています。 この鵯越説は神戸電鉄が、一の谷説は山陽電鉄がそれぞれ自説を 展開して争っています。 私自身の感じでは、兵庫区の鵯越説が納得のできる話の様に思える のですが、今回は、須磨の一の谷の裏山付近を歩いて来ました。 一の谷の逆落とし・・・と考えられている処 義経の進軍路 今回は須磨の山を越えた裏側にあたる、多井畑から義経の足跡を たどります。 多井畑八幡宮(厄神さん) 義経一行は、…

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網干散策

クリスマスの25日、12月とは思えない快晴無風の好天気です。 寒さもなく快適なお散歩日和を味わいつつ、姫路の網干のまちなか 歩きを楽しんで来ました。 『網干』(あぼし)の名の起こりは、魚吹八幡神社の由来により、養老 4年(720)放生会の式日、殺生を禁じ、氏子の漁師は網を干して社参 したので網干祭と言い、近郷を網干と称したことによるそうです。 記録では、鎌倉時代の文治2年(1186)源頼朝書状に「播磨国網干渡」 とあるのが初見といわれます。 古くは縄文・弥生の遺跡や条里遺構など、古くから開発の進んだ地で、 江戸時代には姫路藩領から龍野藩領、さらに丸亀・龍野・幕府領に 分かれるなど複雑な様相を示した。 古社・古寺も多く文化財に富み、網干メロン・トマトの栽培、海苔・牡蠣 の養殖など農水産業も盛んなところです。 実際歩いてみると、古い民家や広い境内地を持つ大きな寺院など、街の 栄えた名残の様子が感じられますが、その一方では、所々で見かけた 商店街では、そのほとんどの店のシャッターが降り、人の姿もあまり 見かけませんでした。 どこの町を歩いても、人通りが多くて賑やかな商店街というところはまれで 多くは、アーケードの屋根もボロボロに、店はシャッターが降り、人影も 見られないようなところが本当に多いです! 大店法、規制緩和で一部の大資本が栄えて、古くからの小さな商店は どことも悲惨な状況に見舞われて閉店の嵐に見舞われた姿が見て取れます!…

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榛原駅から鳥見山公園を経て長谷寺温泉

四年前にも同じコースを歩きましたが、今回は長谷寺の参拝は遠慮し、 長谷寺温泉(湯元井谷屋)に入ることを楽しみにしながらのハイキング です。 四年前の記憶もあやふやで、あれ!こんなに坂道が長かった? あれ! なかなか分岐が出てこないな? などと、自分の記憶と感覚のずれが 酷くて戸惑いながらのハイキングになりました。 前回の時はひと月程早かったので、紅葉も綺麗な鳥見山公園で、行楽の 人も数人おられたのですが、今日は、紅葉の時期も過ぎ、誰一人として 居ない寂しい山中でした。 ↓2012・11・15の同コースの記事 http://singon1koumyou.at.webry.info/201211/article_2.html では、いつものように今日のスナップ写真です! 近鉄の榛原駅で下車し、北側の鳥見山を目指して住宅街の坂道を登って 行きます。 鳥見の清水(公園に向かう坂道の途中にありました) 鳥見山公園の勾玉池 この場所は神武天皇東征伝説に関するゆかりの場所だそうです。 そして 桜井市の南方にも同じく鳥見ゆかりの神社があります。 (桜井市の鳥見山と等彌神社) 鳥見霊時跡(とみのまつりのみやあと) 鳥見社拝殿 祭神は、皇祖天神(みおやのあまつかみ)、大山祇御祖命(おおやまつみみおや のみこと)、神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)の三神だそうです。 近くに”降神石”と書かれた岩がありま…

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大和三山ハイキング

全国にはいくつも○○三山と言われるところがあると思いますが、大和の 三山には特別な響きがあるように思います。 飛鳥の地を離れ、平城京へ移るまでのさほど長くない期間(694~710)、 この大和三山に囲まれた地に都があった時期があります。 持統女帝が初めて都城制の都を作り上げたところで”藤原京”と呼ばれて います。 その持統天皇の和歌として       春すぎて 夏来にけらし 白妙の                        衣ほすてふ 天の香具山 百人一首を通じて多くの人が知られていることも、大和三山が日本人の こころに郷愁の様な懐かしさを呼ぼ覚ます意識のもとになっているのでは ないでしょうか? 今回も数年前に歩いた記憶を頼りに歩きましたが、天気があまりよくなく 曇り空の少し寒い一日でした。 まず、樫原神宮前駅で下車し、畝傍山から藤原京、さらに天の香具山、 そして耳成山から八木駅へと歩きました! 橿原神宮   紀元2676年だそうです。 後ろに畝傍山が見えています。     マスコットの三本足の”かーこちゃん”が迎えてくれました。 畝傍山の登山口に鎮座。東大谷日女命神社 畝傍山山頂には禁足地がありました 麓の畝火山口神社 安産子育ての神様 藤原京朱雀大路跡 朱雀大路跡から藤原京の内裏方面を見る。 後ろに耳成山が望めます 天香具山 天岩戸神社 この…

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書写山円教寺ハイキング

厳しい暑さが続き、寝苦しい日々に体もバテ気味ですが、だらけた体に 活を入れるつもりで歩いて来ました。 目的地は、姫路の書写山円教寺です。 ロープウェイを使わずに、旧参道の一つ、東坂参道を汗をかきながら 上って行きました! 姫路駅北口の18番バス停からバスに乗り、書写バス停で下車。 お堂脇から東坂の参道が続いています。 登り口には”奉仕の杖”が沢山置いてあります 道は整備されていますが、岩盤の道は少し歩きにくいですし、風もなく 強い日差しで汗が吹き出します。 何度か休みながら、ロープウェイの駅に到着 書写山は性空上人と和泉式部で有名です 志納所で志納金500円を支払い円教寺へ向かいます 西国27番 天台宗 書写山 円教寺   康保3年(966)、性空上人によって開かれる。  「この山に登る者は菩提心を起こし、また、峰に棲む者は六根を浄められる」  という、文殊菩薩のお告げのとおり、摩尼殿上の白山(准胝峰)に於いて  上人は六根清浄の悟りを得られて。  この上人の徳を慕って多くの人々が集まり、「西の比叡山」と呼ばれた。 摩尼殿 大講堂 食堂 奥の院 開山堂 開山堂の近くに和泉式部歌塚と言われるものがあります 護法堂 護法堂 乙天社・若天社(重要文化財) 室町時代後期、永禄2年(1559年)建立 乙天・若天は、性…

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室生龍穴神社ハイキング

35度を超える暑い日差しの中でしたが、、近鉄の室生口大野駅で下車し、 ここから東海自然歩道の山越えの道を、室生の龍穴神社・吉祥龍穴まで テクテクと歩いて来ました 数年前にも同じ道を歩きましたが、季節が違い、今回は大変きつく感じました 丁度と言うのか、昨日のお昼頃からギックリ腰になりかけの様な腰の張りを 覚えていましたので、足も進みませんし、暑さともたたかいながらの ハイキングになりましたが、後で確認すると、お茶などの水分をぺットボトル 6本ほど飲んでいました   かなりの量ですがいくらでも飲めそうな気分です 大野寺 (カメラの設定が白黒になっていました) 真言宗室生寺派 伝承では白鳳9年(681年)、役小角(役行者)によって草創され、天長元年 (824年)に空海(弘法大師)が堂を建立して「慈尊院弥勒寺」と称したという。 役小角は修験道の開祖とされる伝説的要素の多い人物であり、空海が堂を 建立との話も創建を宗祖に仮託した伝承とされており、創建の正確な経緯は 不明である。 近くにある室生寺は興福寺系の僧によって創建・整備されており、大野寺の 磨崖仏造立にも興福寺の僧が関係していることから見て、興福寺と関係の 深い寺院であったと考えられている。 宇陀川をはさんだ対岸にある弥勒磨崖仏は、「石仏縁起」(万治2年・1659年) や「興福寺別当次第」によれば、興福寺の僧・雅縁の発願により、承元元年 (1207年)から制作が開始され、同3年に後…

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当尾の里石仏巡り Ⅲ 浄瑠璃寺付近

浄瑠璃寺  真言律宗の寺院  本尊は阿弥陀如来と薬師如来  開基 義明上人  寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来 本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺の通称があり、 古くは西小田原寺とも呼ばれた。 緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂 および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝えています。 高校時代の教科書で読んだ、堀 辰雄の随筆、「浄瑠璃寺の春」で 知ってから何度か参拝訪問しましたが、この日は観光客もほとんどいなく て、境内全体が落ち着いた静けさに満ち溢れていたように感じました。 池をはさんで東側には薬師如来を安置する三重塔 薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主で、現実の苦悩を救ってくれる仏様 この寺ではまず薬師如来を拝み、振り返って彼岸の九体阿弥陀仏を拝む のが本来の礼拝の形だそうです 阿弥陀仏は西方未来の理想郷である極楽浄土へ迎えてくれる仏様 国宝の三重の塔 浄瑠璃寺境内でまったりとした時間を過ごした後、少し道を戻り、 藪の中三尊磨崖仏前を左折して、大門の仏谷の磨崖仏を目指しました。 首切り地蔵 大門石仏群 大門仏谷磨崖仏 高さ・幅6mの花崗岩に、舟形の光背を彫り窪め、そこに2.67mの 如来座像が高肉彫りされています この磨崖仏は印相が明らかでないため、何如来なのか? 色…

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当尾の里石仏巡り Ⅱ 笑い仏

一願不動明王から元の道に戻り、更に下って行くと笑い仏、浄瑠璃寺 などへの表示が立てられています。 左へ曲がり、まずわらい仏、そしてミロクの辻へと向かって行きます。 わらい仏(阿弥陀三尊) 永仁7年(1299年)の銘がある阿弥陀三尊磨崖仏。 俗に”わらい仏”と 言われるように、にこやかな笑顔で迎えてくれます。 700年以上も昔から、この場所で、多くの人の願い、想いをニコニコと 見つめ聞き取ってくれるだけで助けられた人も多かったのではないかと 思うほど素晴らしい磨崖仏さんです。 当尾の里は、平安・鎌倉期、南都の腐敗堕落した仏教寺院から離れ、この地 で草庵を結び、純粋な気持ちを持って修行に励んだ僧が多くいたところ だそうです。 金ぴかの仏像ではなく、自分たちの心の拠り所としての仏を岩に刻んで 日夜礼拝していたのではないでしょうか・・・? 磨崖仏など、工人の手によるものもあるようですが、僧侶と村人が気持ちを 合わせて作り上げた素朴な仏像には、寺院の中に祭り上げられた仏像には ない素朴な味わいが感じられます。 このわらい仏の傍に、土に埋もれ、胸から上だけを出している地蔵石仏も ありました。 眠りほとけと呼ばれているそうです。 ミロク(弥勒)の辻 線刻仏 写真ではほとんど確認できませんが、実際は、もう少し線刻の様子が 伺えます。 弥勒磨崖仏の左右に銘文があり、右に「願以此功徳 普及於一切 …

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当尾の里 石仏巡り 岩船寺付近

夏空の暑い日差しの中、岩船寺から浄瑠璃寺周辺の石仏を楽しみながら のハイキングを満喫しました。 当日は日曜日でしたが、暑さのためか歩いている人は少なく、グループで サイクリングをしている人が多かったですね。 JR加茂駅からコミュニティバスで岩船寺まで乗車。 岩船寺から浄瑠璃寺 まで個性的な石仏を見ながら歩きましたが、この岩船寺、浄瑠璃寺までは 夏の日差しの中でも疲れずに楽に歩けるぐらいの距離だと思います。 岩船寺   岩船寺は729年(天平元年)聖武天皇の勅願で行基が建立したのが   始まりとされ、806年(大同元年)弘法大師の甥(姉の子)の智泉大徳   が報恩院を建立。   813年(弘仁四年)嵯峨天皇が皇子誕生を感謝し、堂塔伽藍が整備され 岩船寺となりました。   真言律宗。   本尊は阿弥陀如来坐像。 最盛期には39の坊舎をもつ大寺院だったそうです。 しかし1221年(承久三年)承久の変により大半が焼失し、 それ以後、  再興された堂塔も再度の兵火により次第に衰え、現在は本堂と三重の塔  のみとなっています。 本堂は江戸時代のものが老朽化し、1988年(昭和六十三年)に、再建   されたものが、現在にも至っています。 三重の塔は834~847(承和年間)仁明天皇が智泉大徳を偲んで、宝塔を   建立。   現存する塔には嘉吉2年(1442年)の刻銘があるので、…

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岩船寺から浄瑠璃寺 石仏ハイキング

暑い夏空のなか、JR加茂駅からバスに乗り、当尾の里の石仏巡り ハイキングを楽しみました。 岩船寺から浄瑠璃寺付近は京都府の南端で奈良との境になります。 加茂・笠置・柳生から奈良の春日の森付近は鎌倉期の石仏が大変 多いところで、その一つ一つもユニークで愛着の感じられるものが多く 見られます。 どのような人が残したものか分かりませんが、費用をかけたであろう 木造の仏像に劣らない信仰心と熱意が直に感じられます。 更には、今は行き交う旅人もいなくなった山中の古道にひっそりと 見つめている不動明王や阿弥陀仏、釈迦仏などの石仏の願いに 想いを馳せながら歩きました。 加茂駅前から乗ったコミュニティバスは一時間に一本の運行ですが、 乗る村人もいなくて、行きも帰りも私達二人だけしか乗っていませんでした。 今まで何度か歩いた当尾の里ですが、今回初めてバスに乗り気付いた ことは、意外と高所まで上がって行くことです。 山に囲まれているというだけでなく、かなりの高所に位置していると いうことが分かり、何故か不思議な印象が残りました。 そのためか、街中ではクマゼミの声ばかりなのに、ここではヒグラシの 声がほとんどでした。 ・・・で、詳しい説明は後日にして、今日のスナップ写真を載せておきます。 岩 船 寺 付近     一願不動 笑い仏 ミロクの辻 カラスの壺 二…

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唐古・鍵遺跡から杵築神社付近

田原本町の鏡作坐天照御魂神社から寺川を渡り唐古・鍵の弥生時代の 遺跡あとへ向かいました。 道路に遺跡のイメージを表す様な模様がありました。 途中に「鍵の蛇巻」というものが・・・ 唐古・鍵の遺跡跡は広い広場になっていますが、この下に発掘調査を終えた 多くの古代遺跡が埋まっているようです。 遠くには三輪の山も望める場所ですが、池のそばに復元された楼閣が建て られています。 唐古・鍵遺跡のそばに、神戸で良く知られたUCC上島コーヒーの創業者の 記念碑がありました。 唐古の遺跡から今里の杵築神社、そしてここの今里の蛇巻を見て、さらに 西の黒田を目指して歩いて行きます。 杵築神社 (お寺の境内にあります) 鍵の八坂神社と共に蛇巻きの神事が行なわれることで知られています  創祀などは不明  江戸時代は牛頭天王社といっていました  明治42年に字東クノギにあった春日神社を合祀 祭神;須佐男命、天児屋根命 境内社;市杵嶋神社 境内に(融通念仏宗)通法山「正福寺」があります  (本尊;室町時代の阿弥陀如来立像) 今里の蛇巻 途中にも色々と歴史的な場所が・・・ 今里の浜 農神さん

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吉野花見ハイキング・西行庵

金峯神社からさらに奥へと足を進めると、途中に大峰山奥掛け道と 鳳閣寺方面への分かれ道があります。 この分かれ道を右方向に進み西行庵へと歩きましたが、後で、ぐるりと 回ってこの場所に出てくることがわかりました。 この吉野のさらに奥山、少し開けた平坦地に、西行さんの小さな小さな庵が 山裾にひっそりと隠れるようにありましたが、日々どのようにして過ごして いたのか? 西行法師(1118-1190)がこの地で隠棲された年齢は諸説あるようですが、 出家間もないころ、俗世の垢を落とす意味を込めて、この雪深い場所で 三年間ほど暮らされたようです。 今は周りに建物一つない山中ですが、かっては、この近くにも色々なお堂が あったものと思います。 西行庵 小さな庵の中には、西行さんの像が置かれています。 苔清水 ここから少し登ると、四方正面堂跡という場所に出、さらに歩くと大峰道 と出会ったところには安禅寺蔵王堂跡(宝塔院跡)もありました。 これらのお堂は西行さんの頃にはあったのでしょうか? 興味のあるところです。

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吉野花見ハイキング・金峯神社

吉野水分神社から高城山展望台を経て、奥千本の金峯神社を目指して 歩きます。 牛頭天王社跡 この牛頭天王社跡の左側前方の丘を登ると高城山の展望台があり 大阪方面の二上山から葛城金剛の山並みを望めます。 休憩所も在りましたので、少し遅い昼食を食べました。 暫しお昼休憩のあと、金峯神社を目指して歩き始めます。 少し歩くとバスの発着場がありました。 お花見の観光客の人はバスが 便利ですね。 閼伽の井 金峯神社境内への入り口には、大峰奥掛け修験道の『修行門』という扁額 が掛けられた鳥居がありました。 ここから舗装された長い坂道の上が金峯神社です 金峯神社 金峯神社と隠れ塔   この神社は金山彦命を祭る吉野山の総地主 の神で、一名金精明神ともいって 古くから信 仰を受けてきた延喜式内社です。 金峯というのは、この辺りから大峯山へか けての総称で、古来地下に黄金の 鉱脈がある と信ぜられて、宇治拾遺物語その他にも、こ の山に登って黄金を 得たという話があります。 これは仏教説話として、金峯山は黄金浄土で あるという観念から生まれたもの です。   左の小道を下った所にある建物は、隠れ塔 といって、ここは大峯修行場の一つ で、この 塔に入って扉を閉じると中は真っ暗になります。 そこで神官の先導に従って       吉野なる深山の奥のかくれ塔 本来空のすみかなりけり と唱えながら塔…

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吉野の桜見ハイキング 中千本・上千本

如意輪寺で枝垂桜を満喫した後、旧道の山道に入り、登坂に苦しみ ながら、水分神社を目指しました。 旧道の山道 途中の稚児松地蔵 ここは喜佐谷・象の小川から宮滝方面への分かれ道 まだまだ登りは続きます! 結構キツイです! ここには日拝地蔵がありました 道が開けると、遠くに蔵王堂が見えています 佐藤忠信の花矢倉というところがありました 吉野水分神社に到着 手水舎 吉野水分神社のご祭神     水を司る天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神   高皇産霊神・少名彦神・御子神・天津彦火瓊瓊杵命・玉依姫命・   天萬栲幡千幡比咩命を配祀する。 由緒書き 水を司る天之水分大神を主神とし、"みくまりが"御子守"(みこもり)と なまって、俗に子守さんと呼ばれ子宝の神として信仰されています。 社殿は豊臣秀頼が再建したもので、本殿、拝殿、弊殿、楼門、回廊から なる桃山時代の大変美しい建築です。

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吉野の桜見ハイキング 如意輪寺しだれ桜

四月二日の土曜日、桜満開の吉野でハイキングを楽しんで来ました。 近鉄吉野駅から下千本・中千本・上千本、そして奥の千本まで歩いて 数多くの名所旧跡と美しく咲き誇っている桜を満喫することが出来ました! この日歩いたコースは、近鉄吉野駅→温泉谷→如意輪寺→旧道→ 稚児松地蔵→日拝地蔵→花矢倉→吉野水分神社→牛頭天王社跡 →高城山展望台→閼伽の井→金峯神社→西行庵→金峯神社 →義経隠れ塔→横川覚範首塚→金峯山寺→総門(黒門)→七曲り坂 →近鉄吉野駅のコースです また、数回に分けて記事にしていきたいと思います! まず吉野駅から如意輪寺までのコースですが、吉野の駅で降りた多くの 観光客の皆さんは、ロープウェイや七曲坂のコースを使って上のお土産店 が並ぶ道筋を歩く人が大部分ですが、私たちは、誰も歩いていない 温泉谷の谷筋の道を歩いて如意輪寺まで行きました。 この温泉谷の道は、”ささやきの小道”と言われているそうです。 温泉谷 如意輪寺山門 境内 難切不動尊 波切不動尊は真言宗のお寺などで見かけますが、難切不動尊は初めて 知りました。 でも、この”難を切る”という観念は大事ですね! 不動尊の剣は煩悩を斬るという働きを示していますが、人生の難事・悩み をスッパリと斬り払う・・・それは、何も不動尊ではなく、自分自身の心の中 での働きなのですが・・・という観念で、気持ちが変化することが大事だと 思います。  …

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保久良神社とカタカムナ雑感

6日の日曜日は、朝から曇り空で雨の心配もありましたが、大阪の友人と 二人で保久良神社から金鳥山~風吹岩~打越山~五助堰堤~白鶴美術館 ~阪急御影駅 と、歩いてきました。 数年ぶりの保久良神社でしたが、少し様子が変わっていましたが、梅林の 梅の香りを存分に味わうことが出来ました。 今まで、保久良神社境内の樹林の中の磐座群には近づくことができなかった ように思うのですが、今回は境内参道脇から足を踏み入れることも出来るよう になっていました。 また、鳥居の横には、椎根津彦命が亀に乗った姿の像もありました。 そのお姿は、丁度、籠神社の倭宿禰像と似ているな・・と思っていました が、保久良神社のご祭神の椎根津彦と倭宿禰命は同一神ということ だそうです。 倭宿禰命(丹後一の宮、籠神社の説明引用) 倭宿禰命(やまとすくねのみこと)は海部家四代目の祖先です。 もとは「珍彦(うづひこ)」・「椎根津彦(しいねづひこ)」・「神知津彦 (かんしりつひこ)」・「槁根津日子(さおねづひこ)」と呼ばれていましたが、 神武天皇東遷の途次、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現れ、神武天皇を先導し て浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策により天皇を無事に大和へと導いた 大和建国第一の功労者として、神武天皇から「倭宿禰」の称号を賜りました。 倭宿禰命(やまとすくねのみこと)は倭国造であり、大倭国造の祖・大倭直の 祖でもあります。 倭宿禰命は大和の国で「倭大国…

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再度山修法ヶ原、弘法大師修法地

今日は、朝から再度山の大師道を歩き、大龍寺を通り、弘法大師が 修法をしたと伝えられるところまで行って来ました。 大龍寺山門の仁王像 弘法大師修法の地・大師堂 こちら修法の地は初めてお参りしましたが、丁度此の場所に着いた時に、晴天 にもかかわらず、パラパラと水を撒くような急なにわか雨が2~30秒ほど降り ました。 そして、すぐに止んだのですが、お堂にお参りし終わったと同時にまた、 今度も10数秒程の間、同様にパラパラという感じで雨が降りました。 それも、体が濡れるという感じは一切なくて、本当にパラパラと雨粒を撒いた ような不思議な感じの雨でしたので、大変気持ちが良かったです。 この日は、その時以外は全く雨らしいことも無く、晴天の青空がとても奇麗な 色でした。 神戸の伝説では次のような話があります。 延暦23年(804)今からおよそ1200年前に弘法大師が仏教を学ぶため唐 に留学の際、大輪田の泊(兵庫)から船出しようとしていました。 「そうだ、この港の北の摩尼山の山中に、 観音様が祀られているそうだから、 旅の安全と学問の成功をお祈りしよう」と山に入られお参りと修行をされた後、 大師は唐の国へと船出して行きました。 航海の途中いろいろな魔物が現れて大波を起こし、 船を転覆させようとします が、その度に大きな竜が現れて魔物を追い払い船を守ってくれました。 唐の国での学問を終えて大師が日本…

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飛鳥散歩

昨日までの寒さが和らいだ今日、近鉄桜井駅から気ままに歩いて 橿原神宮前駅まで歩いて来ました。 特に大原の里(現在は小原地区) は初めてでしたが飛鳥万葉時代とさほど変わっていないのではないかと 思いました。 この日は、陽が蔭ると少し肌寒さを感じましたが、風が吹かなかったので 歩きやすい一日でした。 スナップ写真で紹介していきます! 若桜神社 安倍山城跡 土舞台 聖徳太子による、日本初の国立演劇研究所があった場所。 日本書紀、推古20年(612)に百済人、味摩之が呉で「伎楽舞」を学び 聖徳太子がご覧になり、少年を集めてこの地で習わしめたところ。 爾来、舞楽は宮中、春日大社、四天王寺などに伝えられたので この地が日本の芸能発祥の地といわれている。 安倍文殊院 日本三文殊の一つ。 安倍一族の氏寺として大化元年(645)に建造。 遣唐使の安倍仲麻呂で有名。 陰陽師安倍晴明の生誕地(諸説あり) 飛鳥資料館の猿石など(レプリカ) 猿石 道化? マヤ・アステカ風? 宇宙人? ゴリラ? 宇宙生物? 黒人? 半漁人? 中臣(藤原)鎌足の生誕地 小原《大原)の里  現在は付近に建物も無く、畑が広がり、多武峯からの山裾 なのか、畑を下に見るような少し傾斜したところです。 大伴夫人(鎌足の母)の墓 大原の里は天武天皇と藤原…

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高野街道ハイキング

昨日の雨も上がり、曇り空ながらも気温も高くて歩きやすい日になり ました。 南海電車の難波駅から紀伊神谷駅まで乗り、紀伊神谷の無人駅で 下車。 しかし、上古沢駅で、この先の紀伊細川駅と紀伊神谷駅の間で 落石の恐れが有り、確認のためということで、30分以上足止めされ ました。 その為、少し遅れましたが、紀伊神谷駅から、昔の高野街道の一つで 京大阪道といわれている道を歩き始めましたが、すぐに道を間違え ました。 本来のハイキングコースでは、高野山女人堂・不動坂・極楽橋から 神谷を経て学文路(かむろ)駅に至る街道なのですが、結局、神谷 から農業道を歩いて高野下駅まで降りてしまいました。 楽しみにしていた街道ではなく、新しく作られた農業道を歩いていました。 (大失敗!) さらに、この日は、10年以上愛用し使い慣れた登山帽をどこかで 落として失くしてしまい、これも残念なことでした! 本来なら、(極楽橋駅)~(高野街道京大阪道)~紀伊神谷駅~学文路駅 と歩く予定。 しかし実際に歩いたのは、紀伊神谷駅~(農業道)~高野下駅~竜王渓 ~九度山駅 九度山の道の駅では、大収穫祭が開催中で、多くの出店があり、踊りなどの セレモニーで賑やかでした。 来年のNHK大河ドラマ『真田丸』の準備か? 九度山駅も少し化粧直しが されていました。 おいし九度山柿が安く売られていましたので、お土産に買いまし…

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高野山女人道を歩く(二)

おたすけ地蔵 おたすけ地蔵は一願地蔵とか一言地蔵といわれ、一つだけ願いを かなえてくれるそうです。 おたすけ地蔵さんの左の道から杉林に入り相の浦口から大滝口女人堂跡 の轆轤峠へと向かいますが、途中から木々が伐採されたような山肌を見て、 明るい山道を登っていきます。 少しきつい上り道ですが、振り返ると木々の上に少し根本大塔の姿が 望めます。 そしてまだまだ続く上り道 大滝口女人堂跡 あちこちで見かけた熊出没注意の看板 大滝口女人堂跡から歩いていくと、途中分岐があり、熊野街道小辺路へと つながる分岐がありました。 女人道は円通律寺へと下って行きます。 円通律寺付近 ここは真言宗の修行道場で四度加行などを学び行を身に付けるところ。 女人道は足元を水が流れるような暗い山道の上りを弥勒峠から五大尊堂 (女人堂)跡を経て奥の院方面へと歩いていきます。 最終的には奥の院前の駐車場があるところに出てきました。 昔の女人道はここから高野三山といわれる摩尼山・楊柳山・天軸山」と 奥の院御廟を取り巻く山道を巡るようですね。 かなり疲れた山歩きでしたが、昔日の女性たちの苦労を少しばかり 感じることが出来たように思います。 普段どの位の人が歩いていたのか 解りませんが、暗い山道を心細くなる思いを、お大師さんを慕う一念で 振りほどきながら歩き続けていたのではないでしょうか。 さらには夜間や宿等はど…

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高野山女人道を歩く(一)

猛烈な暑さも少しばかりおさまりかけたかと思われる日差しの中 高野山に上がり、女人堂から嶽弁天、大門を経て、奥の院へと続く 女人道を歩いてきました。 明治になって高野山の山内が解放されるまでは、女人禁制の修行道場 として、女性は高野山内には入ることが出来なかったために、高野山の 周囲の山道からお大師さんへの祈りを捧げるということが行われていた そうです! 高野山まで登ってくる道中や山道の難儀を乗り越えて辿り着いても、まだ 周囲の山道から微かに見える堂宇に祈ることや、山道に数箇所設けられた 女人堂の仏像に祈りを捧げることしかできなかった女性たちの思いは どのようなものだったのでしょうか? 今日歩いた3時間ほどの山道は、峠越えの上り下りを何度か繰り返し、 しかもかなり遠回りしているような狭く薄暗い山道が続いています。 また、所々には『 最近この付近で熊が出没しています 注意!!』 という立て札を見ると、歩いている山道の周囲にも気を配りながらの ハイキングになりました。 そして800M付近とはいえ、この日は大変蒸し暑くて汗だくに成りながら歩き ました。 ・・・・・・・・高野山は明治五年まで女性が山内に入ることを禁じており、 そのために高野山への入り口には女人堂が設けられていた。 女性たちはそこを起点に女人道といわれる山道を通って金剛峰寺 の外側を巡り、奥の院の御廟近くを通りながら、山々の尾根伝いに 周回していたそうです。 女…

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