櫨谷(はぜたに)神社

端谷城跡から名谷方面に帰る道路際に、石の鳥居と 櫨谷神社と書かれた石柱があります。 神社自体は、鳥居から階段が続いており、直接は 見えません。 今迄は気になりながら、車で通過するだけでしたが、今回は 単車で来ていたこともあり、鳥居横に単車を停め、参拝の 為に鳥居をくぐり、石段を登りました。 今は、この神社の前を車が通る道路が走っていますが、 神社から少し離れたところに、小さな集落が二か所ほど あるだけのところです。 ですので、小さなお社がある位のところというイメージしか なかったのですが、、実際の神社境内に入ると、大変 驚かされました。 写真でもお分かりいただけると思いますが、まさかの 広い境内。 そして奥まった山裾には堂々とした立派な 社殿が見られたのには、ナニコレという感慨が強く印象的 な神社でした。 社務所もありましたが、普段は無住のようで、管理は 村人の力に寄っているのか、清掃も行き届き、清々しい 明るさに溢れた境内です。 普段から参拝者は少ないようで、この日も誰とも 会うことがありませんでした。 お陰で、ゆっくりと参拝出来るとともに、祝詞も気兼ねなく 声を出して唱えていました。 【ご祭神】   主祭神:  大日靈命    配祀神:   天児屋根命           吉備津彦命           国常立命          …

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芦屋神社

東の田園調布と比べて、西の高級住宅街と言われる 芦屋の中でも阪急電車から山手にかけての一帯は 坂道の多いところですが、羨ましいばかりの豪邸が 建ち並んでいます。 この日も、芦屋神社に上る坂道を歩いていると、見かける 車は、高級外車が多く、中には見たことも無いような車も ありました。 そんな高級住宅に囲まれた芦屋の高台に芦屋神社が 鎮座しています。 今は、神社鳥居から参道一直線の坂道の下方に芦屋の 浜にありますマンションが、かすかに見えていまが、 昔は、大阪湾全体の眺望も良かったところだったという 思いがしました。 阪急芦屋川駅付近 開森橋から見た蘆屋川上流・城山・ロックガーデン方面 ライト坂 天神社石灯篭 芦屋神社付近から海を見る 芦屋神社付近 神社正面 境内案内図 社殿 獅子(常盤) 狛犬(堅盤) 芦屋神社由緒 縁結び・産業繁栄・諸難抜除の神として崇敬をうけて おります天穂日命は、天照大神の第二子であり、 大八洲国の主宰神であった大国主神と国譲りの交渉を 結ばれました。 その後、大国主神の大神殿を築き、自ら祭主となられ ました。 その血脈は永々と継承され、今日も御子孫が祭主と して出雲大社をお祀りしておられます。 当神社の創始は不詳ですが、天穂日命が高天原より 降臨された磐座が六甲山頂に現存することや、境内に 横穴式…

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尼崎の貴布祢神社

寺町に沢山ありますお寺に少し立ち寄りながら、 出屋敷方面に歩き貴布祢神社を目指します。 神社横の貴布祢公園入口 2号線側に参道・鳥居 境内 拝殿 【御祭神と由緒】 かつて尼崎城主の崇敬が篤く、代々御祈願所を務めて きたことから、現在に至るまで多くの市民に 【尼崎の総氏神】として親しまれています。 創建年代は明らかではありませんが、摂津志には 嘉暦元年(1326)に創建されたと伝えられています。 元は尼崎城内三ノ丸に鎮座していましたが、元和3年(1617) の戸田氏鉄による改築城の際、現在の西桜木町に、 その後現社地には正徳5年(1715)に遷座しました。 【御祭神】    高龗神(タカオカミノカミ)    加茂別雷神(カモノワケイカヅチノカミ)    加茂御祖神(カモノミオヤノカミ) 【境内末社】    白波稲荷神社    白龍大神   市庭戎神社       愛敬三社   榎 社 相殿社   本殿 気になったこの模様は何? 御朱印

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嵐の聖地・櫻井神社(尼崎)

再建された尼崎城の公園内にある、図書館の南側に 櫻井神社がありました。 あとで調べますと、この神社は、その神社名から、アイドル グループの”嵐”のメンバーの桜井君になぞらえて多くの 女性ファンがやってくる神社だということでした。 私は、全然知らずに、何時ものようにただ目についたので、 どいう処か、少しお詣りでもと思い、境内に入りました。 【櫻井神社】 本殿側の裏手にも神社の入り口がありましたが、南に 回って表側から境内に入りました。 拝殿 本殿 【神社由緒】 当神社は、明治15年、尼崎城内に建立。 櫻井松平の祖、信定公は、戦国の世に勢力拡大に尽力、 三河安城にその基盤を築かれた。 当時の世のならいで、七代目忠頼公が、28才で亡くなり、 家が断絶するが、八代目忠重公の努力と徳川家康公の はからいで、お家再興がかなう。 十代目忠喬公の御代、遠州掛川より尼崎城に移封。 即ち尼崎初代の城主となる。 代々の城主は文芸に優れ、中でも尼崎三代目城主忠告公 は亀文と号して、「まづ霞む竈々や民の家」の一句を 境内石柱に残されている。 最後の城主忠興公は、明治10年の西南戦争で敵味方区別 なく戦傷者を看護され、これが世界赤十字に認められ、 日本赤十字社の誕生を見るに至る。 ・・・随分、新しい神社ですね・・・ 【御祭神】   櫻井信定公…

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磐座と琴弾の滝

天石門別神社拝殿での不思議体験は、聞こえていた 子供たちの様な声が、かなりの大きさだったので、気に なりながら拝殿から本殿裏手に回り、階段下の旧社殿跡・ 磐座を経て、琴弾の滝に向かいました。 本殿から滝までは二~三分位でしょうか、本来は この滝が御神体でなかったのかと感じました。 磐座は古代に於ける祭場の跡として代表的(2,000年以上 経っているそうです。 薬師寺慎一氏の『祭祀から見た古代吉備』(吉備人出版) のなかに、宮司さんから寄せられた石積の話が載せられている。  「私の家は代々宮司職を世襲しており、私は第69代 めに当たります。 曾祖父中川寛(明治38年没)が残した記録によれば、250年 ほど前、平らな岩があり、人がそれに腰掛けて弁当を食べた ところ、神罰があった。 そこで岩の周りを石で囲んだのだそうです。 これが今の石積みで、中にある平らな石がイワクラです。 なお、御祭神の天手力男之命はこの岩に乗って飛んで 来られたと伝えられています。」  また、元禄4年(1691)成稿の美作国の地誌『作陽誌』 には、この石積は「猟師塚」で、天石門別神がこの地に 鎮座したときに案内した猟師の塚、あるいは国司の墓と 伝えられ、造られたのは近年のことなりと記されている。 池の跡 琴弾(ことびき)の滝 落差13m、幅5m 滝は2段からなり、上の滝を雄滝、下の滝を雌滝と呼ばれ…

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美作の天石門別神社

和気神社を後にして、剣道の46号線を走り、岡山国際 サーキット脇を過ぎて、古くから滝の宮と言われている 天石門別神社とその境内にあります琴弾の滝(ことびき) へ車を走らせました。 30分ほど走っていたと思うのですが、行きかう車も殆ど 出会わない山間の快適なドライブを楽しみました! 天石門別神社への道 この神社は数年前に偶然出会ったのですが、それから 二度ほど参拝させて頂いていますが、他に人がいた ことは無かったように思います。 付近にも全く家はなく、ダムと自然公園があるだけの ところです。 今回は、駐車場所に一台の軽自動車が停めてありました。 境内への入り口 神社の拝殿に上がる階段のところで、丸々と太った タヌキを見かけましたが、タヌキさんは石段下の暗がりに 隠れてしまいました。 天石門別神社拝殿 狛犬 狛犬は(阿形の狛犬、吽形の狛犬)作者・年代とも不詳である が、伝えられるところの渋谷国綱の寄進によるものと言われて いる。 約480年(室町時代)前のものである。 (※約10年ほど前、一基が盗まれたとのことで、今は 中国製の狛犬を飾っているそうです。) 特に16葉の菊花の紋章が神社の格式の高かったことを 有力に物語っている。 天石門別神社由緒  美作三宮 天石門別神社 天石門別神社 御鎮座以来御社名鎮座地の…

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和気神社

和気清麻呂は、弓削道鏡の陰謀を砕いた道鏡事件で 日本史の授業でも名前が出てきますが、備前国藤野郷 (現在の和気)の出身です。 その和気氏の氏神はじめ、和気清麻呂と広虫を祀っている のが和気神社です。 【弓削の道鏡事件とは】 称徳天皇(孝謙女帝重祚)が寵愛する道鏡を皇位に つかせると天下泰平になるという、宇佐八幡宮の御神託 があり、その神託の確認する役目を帯びて宇佐に向かった のが和気清麻呂です。 ・・この神託そのものが道鏡の陰謀によるでっち上げのよう ですが・・さすがに称徳女帝も、どこから降って湧いたか 分からない一度の神託では、他の公家達の理解が得られない と思ったのか、天皇の女官であった和気広虫を宇佐に派遣 しようとします。 だが、この広虫さんは体が病弱で余り強くないため、弟の 清麻呂を代役に立てたということです。 ・・こういう処から、道鏡からの賄賂を持ち出されるやり取り、 そして宇佐八幡での神託を受ける巫女たちとの駆け引き、 更に道鏡の命を受けた刺客などなど・・・・・ 講談話にもなりそうな話で面白い・・・ それで!!!! 【八幡大神の神託は】 「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。 無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」 を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告。 清麻呂の報告を聞いた称徳天皇は怒り、清麻呂を 因幡員外介に左遷、さらに別部穢麻呂(わけべ きたなまろ)と改名さ…

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和気の由加神社

備前焼の里を後にして、和気神社を目指して走っていると、 金剛川の川沿いに大きな神社が目につきました。 特に急ぐこともなかったので、境内の広い駐車場に車を 停めて参拝。  この頃には日差しも強くなり、少ない日陰を 探して車を停めました。 由加神社 随神門 拝殿 神社の説明の中には、次のように占断を得意にされて 力を入れておられるように思いました ☆彡☆彡☆彡 江戸期より家相を専門に診断しており、秘伝として伝わる 家相方位専門のご祈祷により陰陽五行の災難を封じます。 四柱推命にて、家を建てる時期などを判断し、家族の方皆様 の運勢も診断いたします。 当神杜には、太古のご祈祷が数多く伝えられており、妊婦の 方で、つわりがひどい、妊娠して体の詞子が悪い方は閉死よけ をいたします。 また赤ちゃんの夜泣き止め、カンの強いお子様の蟲封じも いたします。 本殿 本殿裏で! 獅子(麒麟?)の彫刻 境内末社 日本の各地に由加・由賀・瑜伽等々、【ユガ】と言われる神社や お寺がありますが、何か繋がりがありそうですね? 考えても分からないので、和気神社へ向かいます!

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伊部の忌部神社

備前焼の焼き物も楽しめた天津神社から、さらに山の中に 入ると、樹々に囲まれた境内にひっそりと忌部神社が 鎮座しています。 天津神社横から続いている参道の坂道を登っていくと 途中には国指定の備前陶器窯跡(北大窯跡)があり、 付近の看板には、[陶器の破片等の持ち帰りは禁止]と いう注意が書かれていました。 忌部神社境内と拝殿  人気のない山中で境内は樹々に囲まれていますが、湿った  感じはなく落ち着いた静けさがありました  ゆっくり天津祝詞を唱えて感謝参拝 陶祖 忌部神社の札 祭神 由緒 御祭神:陶祖・天太玉命 祭礼日:5月15日 由緒  「伊部」(いんべ)の地名の由来となっている神社で、創建は  不詳  窯元六姓「金重・森・木村・大饗・寺見・頓宮」の窯元達が  備前焼の末永い繁栄を祈り、この社を祀りました。  天津神社の境内末社で、昔は小さな祠でしたが、昭和4年  伊勢神宮より摂末社をいただき伊勢から片上湾へ船で  運ばれ、そこから行列をなしてこの地に建立されたという  ことです。 御祭神の天太玉命は、天照大御神岩戸隠れの際、には 鏡を差し出し、天照大御神の関心を引き出す役目を与えられて います。 また瓊瓊杵尊の天孫降臨に従った神で、宮中祭祀を司る 忌部氏の祖と言われています。 忌部氏は阿波・讃岐・紀伊・筑紫等の国々で知られて いますが、…

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備前焼の里 天津神社

初夏の山々が青葉若葉で濃淡のグラデーションを見せる 美しい季節になり、更にここ数日は雲一つない好天が続いて います。 以前なら、ハイキングに出かけたくなるところですが、 最近はひざ痛に悩まされて一時間も歩くと体がガチガチに なり、かえって体のバランスを壊す心配が出ています。 それで、ついつい単車や車に頼る様になっているのですが、 行き先を忘れたり、逆走したりしないでいる間に、岡山の 山間部を走ってきました。 先ずは、備前焼の里として知られる、JR伊部駅を目指し、 駅に車を停めて、天津神社・忌部神社と参拝し、そのあと 和気市の由加神社から和気神社へ。 和気神社から美作の山間部に入ると、出会う車も少なくなり、 気持ちよいドライブで岡山国際サーキット場脇を走り、滝宮 の琴弾滝まで走りました。 天石門別神社に参拝した後は、八塔寺村を通って帰路につき 9時間ばかりのドライブと神社参拝を楽しんで来ました。 まずは備前焼の里 天津神社 JR 伊部駅付近は備前焼の窯元が、それぞれの特色を 競い合うように建ち並んでいます。 伊部駅 特に、旧山陽道沿いには多くの窯元が店舗を構え、古く からの風情を感じさせてくれています。 その旧山陽道沿いに鳥居を構え、少し山に入ったところに 備前焼の里伊部を見守る様にして天津神社が祀られています。 備前焼の立派な狛犬 天津神社由緒 …

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荒田八幡神社 平頼盛邸跡

現在の神戸大学医学部附属病院と、有馬街道を挟んだ 西側に荒田八幡神社が鎮座しています。 今は、低くなった西側から見ると一段と高くなった場所 にあります狭い境内の神社ですが、当時は清盛の 異母弟、池の中納言と言われた平頼盛の山荘があった ところと言われています。 元は、近くにあります安徳天皇の菩提を弔う、宝地院と いうお寺の境内にあった八幡社を明治31年、神仏混交を さけてこの地で熊野権現を祀っていた高田神社と合祀し 荒田八幡神社としたということです。 宝地院                平家滅亡から約百年後の弘安2年(1279年)に、安徳天皇 の御菩提を弔うため智鏡を開基に創建されています。 荒田八幡神社 福原遷都八百年記念碑 1180(治承4)年6月3日に三種の神器と文武百官を 従えて福原の地に着いた安徳天皇は、まず、この付近に 山荘を構えていた、平頼盛公の屋敷を行在所(皇居)と します。 ・・といっても安徳天皇が荒田の地にいたのは1日だけで、 翌日には「雪の御所」と呼ばれる平清盛公の邸宅に移り、 入れかわりに高倉上皇がこの荒田の平頼盛邸に居を移して います。 安徳天皇行在所跡碑 高田稲荷社

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平野 祇園神社

神戸市兵庫区の山手、有馬街道が市街地を離れて山に 入るところの高台に平野の祇園神社が鎮座しています。 この祇園神社を目指し、神戸駅から市営バスに乗り、平野 下車。 平野の有馬街道の交差点には、若かりし日の平清盛の像が ありました。 京の都方面をさし示しているように思いました。 この下祗園町や上祇園町、更には雪の御所町という辺りは 夢野方面や有馬方面に向かう古道が通り、清盛の別荘が あったところと言われています。 丁度、祥福禅寺の雲水が托鉢に出ていました 賽神の松跡  古道街道沿いにありました。 賽神の松跡から祇園山(祇園神社)方面 六道の辻 祇園神社 祇園神社由緒   869年(貞観11年)、京で鴨川が氾濫し疫病が蔓延したとき、 行疫神として名高い素戔嗚尊を姫路の広峯神社より北白川 瓜生山の東光寺に勧請することとなった。 その時、広峯社の神輿が平野の地で一泊した地に社殿を建て、 分霊を崇め奉ったところが祇園神社創建の由来とされている。 素戔嗚尊は仏教で祇園精舎の守護神とされている牛頭天王と 同一視されたため、祇園神社はまた天王社とも呼ばれた。 広峯社から東光寺に勧請された牛頭天王の分霊は、のちに 八坂の地に遷宮され「祇園感神院」(現在の八坂神社)となった。 平清盛と平野の祇園神社 本殿 …

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極楽山浄土寺 小野市

仏師 快慶による国宝の阿弥陀三尊像参拝のため 小野市の淨谷町まで車を走らせました。 この浄土寺阿弥陀堂(国宝)の堂内真ん中に、高さが 5,3メートル(総丈8、3メートル)の阿弥陀如来と、 高さが3,7メートルの観音菩薩・勢至菩薩が脇侍として 立っておられます。 (堂内写真撮影禁止ですので、パンフレット等の写真です) この阿弥陀三尊は、背面となる西側が蔀戸になっており、 夕方になると西陽が差し込み堂内が荘厳な光景を現出 するそうです。 さらにこの西陽は床面に反射して屋根裏に当たり、その光が 御本尊に降り注ぎ赤く染めます。 また、直接入った光は、足元の雲座部分を霞ませて、巨大な 阿弥陀三尊が来迎する姿を光で演出する仕組みが造られて いるということです。 季節により、光の印象も異なるそうで、一度見てみたいですね! 阿弥陀堂(国宝) (北側)  (正面東側)  (南側) 水向石 八幡神社 拝殿 拝殿内から本堂(薬師堂)を見る 拝殿内から阿弥陀堂を見る 拝殿内に掲げられていた相撲番付  横綱 羽後 照国   越後 羽黒山 の名前が! 本殿   鐘楼 経蔵 開山堂(重源上人)(左手が本堂の薬師堂) 本堂(薬師堂)   本堂は…

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浅草神社 御朱印頒布見送り

ねとらぼ5月12日(日)記事に次のような事が書かれています ので、ご存じの方も多いかと思いますが転載しておきます。 「御朱印フリマ転売」「職員や巫女に暴言や暴力に近い行為」  浅草神社、三社祭特別御朱印の頒布見送りを発表 5/12(日) 18:09配信 ねとらぼ 「三社祭」で知られる浅草神社  毎年5月に行われる東京都台東区の浅草神社での例大祭 「三社祭」を前に、浅草神社が「三社祭特別御朱印」の頒布を 見送ると発表しました。 理由は御朱印を求める参拝客のマナー違反。  発端は4月27日から5月6日まで浅草神社が行っていた「平成」 「令和」の特別御朱印を頒布したときの出来事。 事前の告知通り、日にちごとに数量が設けられていたものの、 予想を大幅に上回る参拝客が連日押し寄せたことから多くの人 が御朱印を受けられないという事態になったと言います。  浅草神社としては、お参りした全ての人に御朱印を頒布したい 意向があり、整理券の配布や参拝証明書を発行するなどの対策 を行ったものの、それなりの数の参拝客が訪れればどう対応して も相応の時間がかかってしまいました。  そうした状況について浅草神社は、御朱印を求める人の中には 8時間並んでたった1枚の通常御朱印をありがたく受ける人もいれ ば10分でも待たされれば文句を口にする人もいたと言い、参拝客 から説明を求められれば事情の説明をしていたと振り返ります。  この…

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廣田神社

今朝のTVニュ―スで、神社の御朱印の転売が話題になって いました。 元値300円が1万円以上の値を付けて売られており、それが 売れているということにコメンテーターたちが「けしからん!」 という意見を述べていました。 ただ、私は”令和”所縁とかいう、福岡の坂本八幡宮では、 朱印を求める参拝客の対応に当たっていた高齢の氏子さんが 過労でダウンしたというニュースの方が気になりました。 ところで、今日は気持ちの良い快晴のなか、数年ぶりに西宮の 廣田神社に参拝して来ました。 この廣田神社は、毎年シーズン前になると、阪神タイガースの 監督・選手全員で優勝祈願に参拝しているところです。 私が、お詣りするときに、丁度”○○運輸”の新入社員の団体 参拝が行われていました。 廣田神社 由緒 御祭神      天照大御神之荒御魂 御脇殿     住吉大神     八幡大神     諏訪建御名方神     高皇産霊神 (神社公式HPには次のように書かれています・・・) 御主神の御名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 (つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と 申し奉り、即ち伊勢の神宮の内宮に御鎮座の天照坐大神の 御荒御魂に坐しまし、神功皇后御征韓の時御霊威を示し給 える大神なり。 又御脇殿奉祀四社は御主神に尤も縁由深き神々にして …

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多聞六神社

多聞寺前を流れる川沿いを西側に数分歩いた高台に鎮座。 『兵庫県神社誌』によれば、「貞観5年(863)の創建にして、 明治7年(1874)2月村社に列し、同23年(1890)7月に 社殿焼失するも直ちに再建す。 同37年(1904)7月多聞鎮座の無格社(兵庫県神社誌)・ 日吉神社を合祀せり」とあるが、 多聞寺の記録では、「多聞六神社を貞観5年の創建と するのは誤りで、同年に創建されたのは、多聞寺(貞観3年、 慈覚大師による建立)の鎮守神である大山咋神を祀る 『日吉神社』と称するお社である」、 さらに、「近世に入り氏神観念が大きく変化し、多聞寺の 鎮守神と多聞村の氏神とを混同したものと思われる」と記され ている。  しかしながら、当社の祭神は西舞子1丁目に鎮座する六神社 と全く同じであるがため、江戸時代に明石の岩屋神社より ご分霊を勧請し、それぞれの地に奉祀したものであろう。  多聞六神社は安永6年(1777)、西舞子の六神社は 元禄2年(1689)と伝えられている。 阪神淡路の大震災で大きな被害を受けたということです。

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山田の若宮八幡宮神社

本住吉神社の参拝後、渦が森台行きのバスに乗り赤塚橋 下車。 坂道ばかりの住吉山手の住宅街を歩き、徳本上人修行地 を探しました。 今でこそ高級住宅地に変貌し、昔の面影は全くありませんが、 急な坂道が、かって赤塚山といわれた名残を残していました。 徳本上人の座禅修行地から弓弦羽の滝、そして若宮八幡宮 から徳本寺とあるきました。 まぜは、若宮八幡宮神社から書いてみます。 東灘区の西寄りを流れる住吉川に沿った西側は、昔は 住吉村と呼ばれていました。 その中でも山に近いところ、現在の白鶴美術館辺りから 西側が字 山田(住吉山田)で、その名の通り山手の農業地 であったようです。 また、六甲山系から流れ出す住吉川の急流を分水し、酒造り のための精米、製粉、製油などのための水車が多く建てられて いた地区でもあります。 現在は農地も水車も姿を消し、南向きの静かな斜面に住宅が 建ち並んで、その中を水路だけがかつての面影を残しながら 流れている、そういった風情の中で、小さいながらも地元の 住民たちに大切に守られていることが良く分かる神社が 若宮八幡神社です。 地区の皆さんが大事に守っておられる様子が良く分かる 境内です 創建 不詳 祭神 応神天皇 仁徳天皇 由緒 住吉川にある、白鶴美術館の横にあります。   此のお宮は山田地区と言われる此の地域の鎮守で往古の   主邑から…

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本住吉神社 (東灘)

今日は、JRの住吉駅で降り、本住吉神社に参拝。 その後、渦が森台行きのバスに乗り、白鶴美術館近くの 徳本上人の旧跡を巡ってきました。 まずは、JR住吉駅西すぐの本住吉神社に参拝です。 国道2号線側から見たところ 御祭神:  底筒男神、中筒男神、表筒男神、(住吉三神)        神功皇后 配祀:   天児屋根命、大山津見命 本殿 創建年代:神功皇后摂政元年(201) 日本書紀によれば、神功皇后が三韓征伐より凱旋し 難波の港へ向かう途中、船が前に進まなくなりました。 そこで、務古の水門に戻り、神意を占ったところ、 天照大神は広田(廣田神社)に 稚日女尊は活田(生田神社)に 事代主尊は長田(長田神社)に 祀れとの託宣がありました。 さらに住吉三神からは大津渟中倉之長峡に祀るよう 託宣を下されました。 神託により住吉三神を祀ったと 記される「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」 の地が当地であり、当社(本住吉)が住吉三神鎮祭の根源 であると伝え、そのために古くから「本住吉」と呼ばれる・・・・と 「大津渟中倉之長峡」の地は現在の住吉大社であるとする 説が有力であるのでが、当社(本住吉)では住吉大社も当社 からの勧請であると主張しています。 本居宣長も本住吉神社の主張を支持しているそうです。 住吉三神はまず神戸の住吉の地に祀ら…

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加東市 若宮八幡神社

東条湖方面をドライブしていた時、道路沿いに重要文化財 の看板を見つけ、寄ってみました 神社の創建年代は不明。  本殿の板壁に残された墨書から 永禄七年(1564)の再建とされる。 本殿が国の重要文化財に指定されている。 周辺は酒米、山田錦の特産地。 主祭神    誉田別命    配祀神  大歳大神 若王子大神 彦狹知命          素盞嗚命 少彦名命    

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駒ヶ林蛭子神社

神戸市長田区の駒ヶ林漁港にあります蛭子神社。 駒ヶ林で漁をされる人々の安全と、豊漁、そして魚の供養を 願って祀られています。 度々、前を通り過ぎていましたが、今日は境内の桜に引かれ 参拝させて頂きました。 〔御祭神〕        蛭子命        大己貴命        八重事代主命 境内には、享保十六年(1731年)奉納の石灯籠一基が 現存しております。 この地、駒ヶ林の歴史は古く、高麗の使節の来朝にあたり、 その上陸地となり、 「こま島」 と呼ばれていました。 「こまがばやし」の名の由来は、神功皇后が朝鮮に出兵したとき、 高麗からやってきた多くの帆船の帆柱が林のように見えたこと など、諸説あるようです。 奈良から平安時代にかけて遣唐使の出入りが大輪田泊に あった頃、その船繋所であったといわれています。 また平清盛が治承三(1179)年安芸の宮島に参詣するときに、 和田岬をまわって「小馬林」に着いたという記述も残されており、 さらに源平の戦いでも平家の軍船が沖に集まったといわれて います。 近くの駒ヶ林神社境内には、『平清盛上陸地』というところが ありました。 また、この地は東には 刈藻川 、西には、 妙法寺川 があり、 この両方の川の排出した土砂によって、 島状の地形 になっていました。 この地形が、天然の良港となり幾内の出入り口として、 …

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村上帝社 琵琶塚

関守稲荷神社より、現在の国道二号線沿いに謡曲の 「絃上」(玄象)で知られた村上帝社という小さな社が あります。 その話とは、平安時代末期、琵琶の名人であった 藤原師長は唐に渡って琵琶の奥義を極めたいと思い、 都を出て、須磨まで来た。 その夜、村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義 を伝えたので、師長は入唐を思いとどまり、 名器「獅子丸」を埋めて都に帰った。 この伝承を題材として能の「絃上」(玄象)が作られた。 この伝承に基づき、土地の人が村上天皇を祀ったのが 当社であると伝えられています。 二号線に面して立つ鳥居 今は空き地になっていますが 阪神大震災まではお店がありました 境内の後ろを山陽電鉄の電車が通っています 村上帝社の伝説 この社にはつぎのような伝説があります。その伝説のひとつ が謡曲「絃上」(玄象)でうたい語られ、広く世に知られて おります。 『平安期の末期、太政大臣藤原師長は琵琶の名人であったが、 さらに奥義をきわめたいと入唐の志をもってこの須磨の地まで きました。  ところが村上天皇と梨壷女御の神霊が現れて、琵琶の妙手 を授けたので入唐を思いとどまり帰郷した。』 といわれており、一説に『籠宮から師長に捧げた琵琶の名器 〈獅子丸〉を埋めた場所である。』とも伝えられています。 いずれにしても、村上天皇にまつわる伝説からこの地に 村上天皇を祭り、神社とした…

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関守稲荷神社(須磨の関旧跡)

今迄にも何度か記事にしていますが、今回の西国街道歩きの 繋がりで紹介させて頂きます。 現在の須磨付近の様子からは想像もつかない辺鄙な時代、 ここから海岸沿いを塩屋・明石方面に歩いて旅することが 出来ない時代があったようです。 現在のJR・国道2号線・山陽電鉄が通る鉢伏山麓付近は ”赤石の櫛淵”と言われた荒磯で、平安時代まで、都から 来た山陽道は須磨までくると鉢伏山南麓の荒磯をさけて 山間を迂回し、 西進していました。 その道筋は須磨から多井畑を経て塩屋に出、海辺を西に 進み玉津町や岩岡の南方を通っていました。 須磨の関は、大宝令に定められている摂津の関のことで、 海陸を兼ねた関であったといわれています。 天下の三関、(「伊勢の鈴鹿の関」「美濃の不破の関」 「越前の愛発(あらち)の関」)についで重要な関でした。 関守稲荷神社は、この関の守護神として、まつられたと伝え られ、「源氏物語」で光源氏が須磨に退居していた時、 巳(み)の日祓(ひはらい)をしたところをここになぞらえ 「巳の日稲荷」ともいわれています。 (須磨の関跡の地としては、現光寺の地、多井畑などと 諸説があります。) 明治時代初めに千守(森)川と西国街道の交差する 土中から掘り出された石碑(長田宮)の側面に  川東左右関屋跡 と刻まれています 境内の歌碑 源 兼昌  あはじしま かよふちどりの なくこゑに …

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弓場八幡神社

月見山駅から南東方向の住宅地の中に鎮座 御祭神  誉田別尊(応神天皇) 合祀      五十猛尊 (権現社)          菅原道真公(天満宮) 境内社  弓瀧稲荷神社(倉稲魂命) 由緒   一説に永延年間(987~989)第66代一條天皇の御代 に創建されたと伝えられるが、その年月日は不詳である。  誉田別尊を主祭神として奉斎し、明治中期頃より権現社・ 天満宮を境内末社として奉斎したが、昭和29年(1954)の 本殿建替えを機に、その御祭神五十猛尊・菅原道真公を 合祀し、東須磨村一円の氏神としての崇敬はもとより、 近郷の信仰をも集め、厄除開運の神社として広く崇敬され ている。  『武庫郡誌』によると、境内に33間の射場を有し、明治に なるまでは陰暦の2月1日に「御弓の当」という儀式が 行われたと記されている。  かつて、東須磨村は徳川幕府の直轄地であったが、 明治になってこの儀式が突然途絶えたことは、武士社会 からの世相変化によると思われるが、現在その資料も 散失しているのは残念なことである。  通称弓場八幡と呼ばれているのは、勿論「御弓の当」 に由来している。  先の阪神淡路大震災で社務所が全壊したにも関わらず、 収納されていた「みこし」は奇跡的に被害を免れた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 境内の…

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西須磨の昔話

月見山付近を歩いていた時、稲葉公園という公園で休憩 していると、小さな”絵かんばん”の様なモノが目にとまり ました。 近づいてよく見ると、この付近の須磨の説話を紹介した ものでしたが、知らない話もあり、興味深く読ませて もらいました。 【まつかぜ むらさめ伝説】  今から千年以上も昔のこと  都から身分の高い「在原行平」が須磨に流されて  きはった  ある日、多井畑の村長の娘「もしお」「こふじ」は須磨の  浜に汐くみにやって来て、行平と出会い親しくなったんや。  行平は「もしお」を松風、「こふじ」を村雨とよんで、離宮道  あたりにあった行平の家にいっしょに住み、今の離宮公園  の山で月見をしたりして三人は楽しい時をすごしたんや。  そやけど、三年がたって行平が都へ帰ってしまうことに  なって、歌を残して行ってしもた  『たちわかれ  いなばのやまの みねにおうる              まつとしきかば  いまかえりこむ』  「まっていると聞いたら、すぐに帰ってくるよ」という気持ちを  よんだんやけど、それからもう二度と行平は帰ってこんかった  「松風」と「村雨」は尼さんになって、お堂を立て、行平を  しのんだということや  今でも松風村雨堂には、行平が残した「衣」と「冠」を  かけたといわれる松の切株があるんや。 【すわ神社のきつね】  須磨の天神さんの西の諏訪神社は、昔、大き…

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綱敷天満宮

山陽須磨寺駅から海に向かって少し歩くと、諏訪神社と 綱敷天満宮が鎮座しています。 この辺りの江戸時代の「摂州須磨浦一ノ谷真景細見」と いう版画を見ると、西国街道に沿って民家が並び、その 後ろは直ぐに田圃が拡がる中に細い道が綱敷天神の 松林に続いています。 そして、鳥居の前には、砂浜が描かれ、松並木が砂浜 に沿って続いていたようです。 現在は松林も無く、天神と言えば梅と言うぐらい、梅の木 が境内に植えられていますが、昔は違ったのでしょうか? そして、、境内の前から海岸の間には国道2号線とJRが 走り、その先に砂浜が作られています。 当時の様子は、以前に「須磨の良寛さん」でも書いて います https://singon1koumyou.at.webry.info/201702/article_2.html 諏訪神社 「須磨」という地名は、摂津国の西端に位置する「隅(すみ)」 の土地だということから「スミ」が訛って「スマ」となったという 話や、また、この諏訪神社の「スワ」が訛ったものだという話が あるようです。 東向きに建てられた社殿にちなんで「東向明神」とも呼ばれ ていた諏訪神社は、西須磨地域で古くから勢力を伸ばして いた名家である前田家・頼広家・友好家・貴答家・岡本家の 5家によって奉祀され、守られてきました。 また、長田神社が「漁」の守護神とされているのに対して 諏訪神社は「狩」の守護神として人々の厚い崇敬を集め…

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西須磨付近

西国街道の古い絵図では、現在の月見山付近を過ぎ 西に歩いて行くと小さな池や小川が見られます。 この小川を越えると西須摩村となり、藁屋根の家が街道に 沿う様に沢山ならんでいます。 現在では離宮道となっている小川の傍には、周りを田んぼに 囲まれた塚の様な所には村雨堂の松が描かれています。 松風村雨堂 松風村雨姉妹は多井畑の村おさの娘たちで、本来の名は 「もしほ」と「こふじ」と言った。 須磨に汐汲みに出たところ、天皇の勘気を蒙り須磨に流され ていた在原行平と出会い、「松風」「村雨」と名づけられて 愛された。 のちに行平は赦されて都に帰る際、松の木に形見の烏帽子 と狩衣を掛けて残した。 (衣掛けの松) また『古今和歌集』にある   立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる               まつとし聞かば いま帰り来む の歌も、この離別の際に詠んだものとされる。 松風・村雨姉妹は尼となって行平の旧居に庵を結び、 彼を偲んだという、その廬跡と伝えている。 衣掛松跡と松風村雨堂 現在の町名等に、伝説の面影を今に残している。 曰く、稲葉町・衣掛町・行平町・村雨町・松風町などの 町名や、月見の松、衣掛の松、などの跡もあるようです。 この先、少し西に進むと、山陽電鉄の須磨寺駅になるの ですが、その手前で名所図会には、前田氏の家、菅の井 とかに、事代主と書かれた森の様なも…

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月見山界隈

大手の権現さんと言われる證誠神社を過ぎ、西国街道 に戻り少し進むと現在の須磨警察署の前で妙法寺川 を渡ります。  さらに西に進み天井川を渡れば東須磨 に入ります。 聖霊権現 現在の天井川 上に高速道路 現在の街道 天井川の交差点付近 昔の絵図では高い堤と松並木があり、旅人は堤を越え、 川を渡っていた。 大正時代にはトンネルが出来ていたそうですが、 今は何の面影もありません。 江戸時代の文化元年(1804)にここを旅した蜀山人は『天井川と いふところを渡れば水なくして砂石のみなり、人家ありこれ 東須磨なり・・・ここに名物根元松風味噌仕込所・・・立よりて 見るに、曲物に麦糀のあまき味噌をいれたり、また、村雨漬と いへるは同じ味噌に茄子大根などつけたるなり、また、 須磨浦古跡記といふものをひさぐ・・・』と記している。 この東須磨村は、当時ではこの付近一帯では一番大きい村 だったようで、板宿村の二倍、白川村の四倍の石高があった そうです。 また付近には浄徳寺と妙興寺というお寺があります。 月見山浄徳寺(真言宗高野山派) 旧西国街道に面するところに寺を示す石柱が有ります 平安末期から続く浄徳寺の創建当時の諸仏諸菩薩は 本尊である十一面千手観世音菩薩を除き戦火に包まれ 灰となったが、平成五年までに伽藍、仏像などが復興した。 しかし平成七年の阪神大震災で堂宇が倒壊の憂き目に。 不…

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大手の聖霊大権現

旧西国街道を長田から西に歩いて行くと板宿を過ぎ大手村 に入ります。 板宿の地名伝説は幾つかあるようですが、一般的には、道真が 大宰府に左遷されていく途中にこの地に立ち寄った。 急な事でもあり、里人が、板囲いの宿をしつらえ 菅原道真を休ませたということから板宿といわれた。 また、飛松の伝説も残り、今も飛松町という地名があります。 その伝説とは、道真は都では樹木を愛し、邸宅には桜や梅、 松の木を植え育てていた。 道真が失脚した時、桜はショックで枯れ、梅の木は花の香を 東風に乗せ、西に旅する一行の元に届けたという。 しかし、松の木だけは知らぬ顔。 板宿に着いた道真がふとため息交じりに呟いた・・・・松とは 何とも情知らずの木だろう・・・このつぶやきを伝え聞いた 松は驚き恥じ、一心に空を飛び、京からこの地に飛来した! その松の古株が板宿に残っており、菅公の飛松と言われて いるそうです。 この板宿の近く、妙法寺川のほとりに、須磨の聖霊大権現と 言われる證誠神社が鎮座しています。 證誠神社(今年のお正月) この證誠神社は「大手の権現さん」とも呼ばれ、987年 (永延元年)に紀州熊野の権現さんを勧請して妙法寺川沿岸 の大手・東須磨・野田・駒ケ林の五ケ村の氏神として 創祀された。 1182年(寿永元年)に須磨の地にご遷都されるにあたり、 大手の守護神として平家一門の崇敬篤く、…

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東志里池(尻池)の射場八幡神社

宝満寺の少し北側に離れたところに、射場八幡宮という 小さなお宮さんがありました。 この辺りでは、町名に書かれている尻池の字面を嫌ってか? 志里池という字を使っています。 確かに、尻よりか志里の方が詩的で、優しくて良いですね! 由 緒  当社は、通称射場八幡神社と称せられ、大同2年(807)に 宇佐八幡宮を勧請し鎮座した。 射場とは、神功皇后が朝鮮半島に出征の時、弓始めの式 をした処に由来している。  社殿は嘉永3年(1850)に建立され、明治40年(1907)6月には 社殿、社務所、練塀、鳥居等石造物を末正家発起人となり、 近隣崇敬者等で改築・建立された。 大東亜戦争の戦災には免れたが、平成7年(1995)の阪神 淡路大震災には多大な被害を被むる等、これまでにも 幾度となく改修された。  崇敬者は約120戸、東尻池村の旧家を始めとする住民で ある。 戦時中には、崇敬者の疎開や罹災者も多く、人々が減少 したが、復興とともに復帰し、八幡神社を中心とする各社の 各地区の方々の参拝がある。 戦前の夏祭には屋台を組み、にわか等が地元の人々に よって催されていたという。  境内地は旧来、未正家の所有地であったが、明治35年( 1960)11月に国有地に編入、昭和28年(1953)7月に宗教法人 として設立。 厄除、家内安全等の崇敬篤く、東尻池地区では最大の社殿 を有する神社である。 ・・・・ …

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車の大歳神社

神戸市須磨区の板宿から妙法寺を経て白川に向かう 街道(現代の県道22号)の、妙法寺の車(くるま)と言う 古い地区に鎮座していますが、単車でも狭い坂道を 地図を見ながら探しました。 因みに、現在の車(くるま)という旧村名の名前の由来 として、栗の多い土地(クリ・マ)とか、山間の土地 (クラ・マ)などが由来ではないかと言われています… このお宮は、車の翁舞いという、古式の舞が現在にも 伝承されている事で有名ですが、普段は誰もいない 村の鎮守さんと言う風情の処でした。 神社境内は高台になったところに在りますが、社殿の横が 昨年の大雨の影響からか?、崩落していました。 本殿 【ご祭神】      大歳御祖神 【由来】 由緒は不詳ですが、孝徳天皇の大化2年(646)の 創建と社伝(『武庫郡誌』)にも記載されており、また 応永4年(1397)6月19日摂津国八部郡丹生郷より 遷座されたとも伝えられています。 古くは今よりも南にあり、三木街道沿いの今もある字大道 (おおどう)はもと大堂と書き、壮大な社殿を営んでいたと いわれていますが、現代の社殿は、元禄5年に改築された ものです。 【ご神徳】 大歳御祖神は、素盞嗚尊の御子神で、宇迦之御魂神 (稲荷神)等と同じ五穀豊穣守護の神です。 【特殊なおそなえもの】 まず高野豆腐1枚の上に人参・大根を高野の幅に短冊状 に切ったものを…

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