石の宝殿 生石(おうしこ)神社

武蔵生誕地からレンタル自転車の便を生かして、パワースポット としてTVなどに紹介される石の宝殿・生石神社へ向かいます。 私は、今迄にも数回来ているところですが、今回は少し 印象が違っていました。 石の宝殿・生石神社(おうしこ神社)遠望 竜山石(たつやまいし)採石場  竜山石は白亜紀後期に噴出した凝灰岩類から  なり、採石・加工に適していたことから  古墳時代から石棺・宮都や寺院の礎石・建築  石材などとして利用されてきています。 生石神社旧参道 新参道?の額には『生石子神社』と浮彫で書かれています 新参道の駐車場近くに古墳石棺が この様な岩盤が山全体を形作っています 生石神社 ご祭神  大巳貴神 (生石大神)  少彦名神 (高御位大神・粟島神) 国指定史跡 日本三奇 播磨国石乃宝殿 生石神社略記(以下神社で頂いた略記より引用)  神代の昔、大穴牟遅・少毘古那の二神が天津神の命を  受け、国土経営の為、出雲国より此の地に座し給いし  時、二神相謀り、国土を鎮めるに相応しい石の宝殿を  造営せんとし、一夜の内に工事を進めるも、工事半ば  なる時、阿賀の神一行の反乱を受け、その為二神は  山を下り、数多神々を集め(高砂市神爪)、賊神を  鎮圧したが、夜明けとなり、この宮殿を起こすことが  出来なかった。  時に二神のたまはく、たとえこの柱が未完成なり…

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宮本武蔵生誕地

先日、明石城で宮本武蔵、そして伊織が活躍していた ことを知り、改めて武蔵に興味が湧きました。 今迄、美作の宮本村が、吉川英治の後押しもあり、 武蔵の生誕地としての主張を強力に推し進めて いたことで、私も美作説に引かれていました。 しかし、今回、播磨の武蔵生誕地の主張を見てみると、 武蔵自身、および養子伊織の記録などから播磨国米田 近辺が真実の様に思えてきました。 この播磨国米田は現在の高砂市米田ということで、 JR宝殿駅で下車して散策して来ました。 宝殿駅は「石の宝殿」と言われる「生石神社」や 「竜山石」でも有名なところです。 ではでは、はじまりはじまり・・・・ そもそも、武蔵の生誕地については次のようなところ で争っています。 (1)(美作国)美作市宮本 (2)(播磨国)高砂市米田町米田         米田天神社付近 (3)(播磨国)加古川市加古川町木村宮本         泊神社付近 (4)(播磨国)揖保郡太子町宮本 などが名乗りを上げています。 それぞれ主張があるようですが、私が今日訪ねたのは 高砂市の米田町にあります、米田天神社です。 この高砂と加古川の泊神社付近が、資料から見た 武蔵生誕地として妥当なところだと思いますが、 何せ、岡山の観光利用目的と思われる積極果敢な 攻勢には、兵庫勢は完全に負けています。 これは、今日、高砂の米田天神社に来て良く理解 出来ました。 …

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明石城の睡蓮

朝方はどんよりとした梅雨空の神戸でしたが、九時を 過ぎたあたりから、時々晴れ間も見えだしましたので、 久しぶりに明石へ向かいました。 特に当てがあったわけでもなく、漫然とした散歩の つもりでしたが、明石城内に入るころには青空に なり、広い城内を写真を撮りながら、ぶらぶらして いるだけで汗が出てきました。 折しも、野球場からは、兵庫県の高校野球予選を 戦う高校生の声援ブラスバンドが大音量で響き 渡っていました。 明石城のお堀と噴水 明石城内の風景 (武蔵の庭) 1617年7月〔元和3年〕、小笠原忠真が信州 松本から明石に国入りする。 義父の姫路城主本多忠政と相談し明石の人丸山に 新城を築く。 その時、町づくりに本多忠政の長男忠刻(千姫の夫) の客臣宮本武蔵が姫路から明石に来て小笠原家の客分 となり、明石の町割りをしました。(播州明石記録) 武蔵は、明石滞在中に、自分の剣に「円明流」という 流名をつけています。 円明は、月の名所である明石の月から来ています。 武蔵の庭園は三の丸跡に復元された大名庭園で、 もともと山里曲輪にあった「樹木屋敷」の石や木を 移築してつくられました。 大滝(男滝) 小滝(雌滝) (明石城公園スナップ) 東の丸高台から明石駅方面そして淡路島を見る 睡蓮がたくさん咲いていました …

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転法輪寺の弁財天と蓮華

神戸市垂水区の転法輪寺は令和元年(今年)の五月 に参拝し、御朱印も頂きましたが、今の時期は 弁天池の蓮が綺麗に咲いています。 といいましても、小さな池の小さなお堂に弁財天 を祀り、池には蓮が重なる様に生えています。 私には蓮の種類は分かりませんが、まだ蕾が多く、 綺麗に咲いていたのは少なかったのですが、 紹介させていただきます。 まず、弁財天さんにご挨拶  オン・ソラソバテイエイ・ソワカ 御真言のソラソバテイ(सरस्वती, Sarasvatī) とは、サラスヴァティーで インドの神話ではブラフマン(梵天)の妻です。 日本の神様と習合すると、市杵島姫命や瀬織津姫と して祀られていることも多いです。 龍華山 転法輪寺  真言宗 本尊 十一面観音菩薩  御詠歌 今とても 仏の昔 あらわせて        転法輪に 参る月影   弁天池の蓮 石灯篭 宝永の銘が見える石灯篭 少し小雨が降る天気でしたが、しっとりとした 空気感が良かった様に思います。

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伊丹 昆陽寺・行基菩薩

 伊丹の昆陽寺(こやでら)は、現代の西国街道、  国道171号が山門の前を通過し、交通量も多い  のですが、山門を一歩入ると、車の騒音は一切  気にならなくなるところです。  現在は真言宗のお寺として、西国薬師四十九霊場  の札所となっています。  昆陽寺の略縁起では、聖武天皇の時代、天平五年  (733)天皇の勅願所として行基菩薩が建立。  「古今著聞集」には、行基菩薩が有馬温泉に行く  途中に発願して建立とあります。  整理すると、天平3年(731年)行基が貧民救済  を目的とした「昆陽施院」(布施屋)を創建。  天平5年(733年)第45代聖武天皇の勅願寺と  なって伽藍が整備され、周辺を開墾、荘園化  して発展した。  行基は遠近住人の協力を得て、猪名野笹原と言わ  れた荒れ地に田畑を開き、昆陽池をはじめとする  治水工事で水田150町歩を開墾。  職無き者には業を授け、貧しき者には資を与えた。  後々、昆陽の庄と名付けて、その中心四町四面の  中に七堂伽藍、僧房、堂宇を建立し昆陽寺とした。  そして、丈六の本尊薬師如来、十一面観音、  歓喜天、文殊菩薩、持国天などの尊像、行基菩薩  自らの像を作り安置した。  天正七年(1580)織田信長が荒木村重の有岡城を  攻略した折の兵火で灰燼に帰したが再建。  阪神淡路大震災でも大きな被害を受けたが、  平成十年復興を遂げた。  仁王門 …

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伊丹 寺本の猪名野神社

 今日は伊丹で用事があり、その帰りに昆陽寺まで  歩いていると、住宅街の中に小さな神社があり  ましたので参拝。    神社は猪名野神社と書かれていますが、宮ノ前の  猪名野神社とは御祭神も異なります。  こちらの御祭神は    高皇産霊尊  です!   *ちなみに宮ノ前の猪名野神社は    猪名野坐大神(建速須佐之男命)     誉田別尊    を祀られています      寺本の寺は昆陽寺を示すものと思われます。  こちらの神社の創建は明和六年(1770)という  ことです。    神社の境内は広くはないですが、きれいに清掃が  行き届いており、石畳の外、白砂には木の葉や  足跡も無く、地区で大切にされていることが  良く分かりました。  このあと、行基菩薩が天平五年(733)に創建した  昆陽寺に向かいました。

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敏馬(みぬめ)神社

 現在の神戸市中央区の東側、灘区に入ったところ  古代から良く知られ、万葉集などにも歌われて  いる敏馬(みぬめ)神社が鎮座しています。  この神社は、付近の岩屋・味泥・大石地区の  産土神として祀られています。  現在は、神社の前を国道2号線が通り、多くの車  が通過し、その南には脇浜の埋立地帯が広がり、  古代より万葉の歌人たちに歌われた昔日の面影は  全く見られなくなっているのが残念ですが、阪神  岩屋駅で下車して、お詣りして来ました。  阪神岩屋駅前  敏馬神社前  かって、この神社辺りの高台は、海中に突き出た  岬でその西側は入り江になっており、【みぬめ】 「美奴売・美奴面・見宿女・三犬女・汶売」等とも  書かれている。  そして、この前は西国街道の浜街道が通り、多く  の旅人が行きかっていました。  江戸時代のこの付近の絵図では、高台にある  神社の前は松林が砂浜に続き、その砂浜の先に  敏馬の浦と言われる海が広がっています。  敏馬神社  奈良時代の「摂津風土記」に、神功皇后が、朝鮮  出兵に先立ち、神前松原(神崎川)で占ったところ  能勢の美奴売山の神様のお告げにより、美奴売山の  杉の木で船を造って出兵したところ大勝利を収め  られた。  ご帰還の際、この地で船が動かなくなり、再び  占うと「神の御心なり」と。  よって美奴売山の神様をこの地に祀り、船も献上  …

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門戸厄神 東光寺

西宮で、古くから知られた門戸厄神さんまでお参りに 行ってきました。 昔から、親の話には度々出てきており、私も、親の  厄参りなどの時に連れてこられたことがあったよう なのですが、全く記憶に残っていないので、 あらためて参拝してきました。 阪急電車の門戸厄神駅で下車。 この駅前の道は 昔の西国街道だということが分かり、少し驚きつつ、 案内看板に沿って門戸厄神と言われる東光寺を 目指して歩くこと十分ほどで到着。 厄神明王道(参道入口) 東光寺南門 中楼門 表門 矜羯羅童子 制多迦童子 矜羯羅童子・制多迦童子は、不動明王の眷属の八代童子の 中の二童子として最も知られています。   33段の女坂を上って中楼門から境内へ・・・ 楼門をくぐると正面に厄神堂、右手方に薬師堂。 左手方には愛染堂と大黒堂。  そして大師堂も見えています。 厄神堂 東光寺には厄除開運の厄神明王さまが祀られています。 嵯峨天皇が41才の御厄年の時、愛染明王と不動明王が 一体となり、あらゆる災厄を打ち払い、魔を退治する力を 夢の中で感じ悟られました。 弘法大師にこの夢をお示しになると、大師は自ら白檀木に 愛染明王と不動明王が一体となった明王像を3体、刻み 祭られました。 そのうち1体が東光寺に伝わる厄神明王さまです。 その御姿が厄除の護…

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櫨谷(はぜたに)神社

端谷城跡から名谷方面に帰る道路際に、石の鳥居と 櫨谷神社と書かれた石柱があります。 神社自体は、鳥居から階段が続いており、直接は 見えません。 今迄は気になりながら、車で通過するだけでしたが、今回は 単車で来ていたこともあり、鳥居横に単車を停め、参拝の 為に鳥居をくぐり、石段を登りました。 今は、この神社の前を車が通る道路が走っていますが、 神社から少し離れたところに、小さな集落が二か所ほど あるだけのところです。 ですので、小さなお社がある位のところというイメージしか なかったのですが、、実際の神社境内に入ると、大変 驚かされました。 写真でもお分かりいただけると思いますが、まさかの 広い境内。 そして奥まった山裾には堂々とした立派な 社殿が見られたのには、ナニコレという感慨が強く印象的 な神社でした。 社務所もありましたが、普段は無住のようで、管理は 村人の力に寄っているのか、清掃も行き届き、清々しい 明るさに溢れた境内です。 普段から参拝者は少ないようで、この日も誰とも 会うことがありませんでした。 お陰で、ゆっくりと参拝出来るとともに、祝詞も気兼ねなく 声を出して唱えていました。 【ご祭神】   主祭神:  大日靈命    配祀神:   天児屋根命           吉備津彦命           国常立命          …

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端谷城跡 満福寺 新長谷寺

端谷城(はしたにじょう) 神戸市西区櫨谷町寺谷 端谷城跡は、神戸に残る城跡の中でも、開発から 免れて、往時の面影が残るところとして、神戸市の 史跡に指定されています。 この日は、いつも車で通る、神戸農業公園近くで気になって いた、櫨谷神社と端谷城跡などに足を運んで来ました。 先ずは、室町時代からあり、秀吉の三木城攻めで 攻め落とされた端谷城の跡を見学です。 (後方の小高い所が城跡です) 端谷城跡に満福寺という、城主衣笠氏の菩提寺がありますが、 普段は住職がいないようで、鐘が自動撞きでゴンゴンと音を 鳴らしていました(丁度12時に参拝) 鐘楼  後ろの石塔は衣笠氏一族の供養塔(墓塔) 自動撞きの鐘 端谷城は三木城主・別所長治に仕えた衣笠範景の居城として 知られています。 西国街道の要衝でもあり、摂津と接していることから、三木城 の支城としていわゆる「境目の城」としての役割を担っていました。 1578年(天正6年)に別所氏が羽柴秀吉に反旗を翻すと、範景 も淡河の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに別所方として戦い ましたが、織田信澄・明石則実らの軍勢に攻められ天正8年 落城しました。 現在城址には土塁や空堀などの遺構を確認することができ ます。 また三の丸跡にある満福寺には範景の墓碑があります。 五穀山 満福寺 天台宗   御詠歌      …

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芦屋神社

東の田園調布と比べて、西の高級住宅街と言われる 芦屋の中でも阪急電車から山手にかけての一帯は 坂道の多いところですが、羨ましいばかりの豪邸が 建ち並んでいます。 この日も、芦屋神社に上る坂道を歩いていると、見かける 車は、高級外車が多く、中には見たことも無いような車も ありました。 そんな高級住宅に囲まれた芦屋の高台に芦屋神社が 鎮座しています。 今は、神社鳥居から参道一直線の坂道の下方に芦屋の 浜にありますマンションが、かすかに見えていまが、 昔は、大阪湾全体の眺望も良かったところだったという 思いがしました。 阪急芦屋川駅付近 開森橋から見た蘆屋川上流・城山・ロックガーデン方面 ライト坂 天神社石灯篭 芦屋神社付近から海を見る 芦屋神社付近 神社正面 境内案内図 社殿 獅子(常盤) 狛犬(堅盤) 芦屋神社由緒 縁結び・産業繁栄・諸難抜除の神として崇敬をうけて おります天穂日命は、天照大神の第二子であり、 大八洲国の主宰神であった大国主神と国譲りの交渉を 結ばれました。 その後、大国主神の大神殿を築き、自ら祭主となられ ました。 その血脈は永々と継承され、今日も御子孫が祭主と して出雲大社をお祀りしておられます。 当神社の創始は不詳ですが、天穂日命が高天原より 降臨された磐座が六甲山頂に現存することや、境内に 横穴式…

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尼崎の貴布祢神社

寺町に沢山ありますお寺に少し立ち寄りながら、 出屋敷方面に歩き貴布祢神社を目指します。 神社横の貴布祢公園入口 2号線側に参道・鳥居 境内 拝殿 【御祭神と由緒】 かつて尼崎城主の崇敬が篤く、代々御祈願所を務めて きたことから、現在に至るまで多くの市民に 【尼崎の総氏神】として親しまれています。 創建年代は明らかではありませんが、摂津志には 嘉暦元年(1326)に創建されたと伝えられています。 元は尼崎城内三ノ丸に鎮座していましたが、元和3年(1617) の戸田氏鉄による改築城の際、現在の西桜木町に、 その後現社地には正徳5年(1715)に遷座しました。 【御祭神】    高龗神(タカオカミノカミ)    加茂別雷神(カモノワケイカヅチノカミ)    加茂御祖神(カモノミオヤノカミ) 【境内末社】    白波稲荷神社    白龍大神   市庭戎神社       愛敬三社   榎 社 相殿社   本殿 気になったこの模様は何? 御朱印

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尼信会館・尼信世界の貯金箱博物館

櫻井神社から庄下川の橋を渡ったところに、時代を 感じさせる建物が目につきました。 琴城ヒノデ阿免本舗と言う、創業100有余年の歴史 がある、水飴のお店でした。 手作業で、砂糖も添加物も使わない飴ということで、 噺家さんから歌手の方まで愛用されているようです。 少し西へ歩くと寺町という、大きなお寺ばかりが集まる 区域が有りますが、今回はあまりお寺へは立ち寄らず、 尼信会館と、尼信世界の貯金箱博物館へ向かいました。 尼崎に本店があります、尼崎信用金貨は、関西人なら 『アマシン 僕らの 貯金箱』・・・ と言う、コマーシャルを思い出す人が多いのでは ないでしょうか? 私も、尼信については、コマーシャルや、阪神優勝定期 預金の話題位しか知らないのですが、今回、会館や 貯金箱博物館などの中に入り、展示内容だけでなく 受付の職員の方に大変良い印象を覚えました。 【尼信会館】 「尼信会館」は、尼崎信用金庫が創業80周年に記念事業 の一環として、地域の発展と地域文化向上のために、 平成13年6月1日に開設されました。 尼崎城の外壁をイメージし、歴史的に貴重な資料を数多く 展示するとともに、施設の一部を地域の芸術、文化の発信 基地として利用できるスペースも兼ね備えた建物になって います。 私も今回が初めての事で、怪しげなおじさんの一人では 少し入りにくい雰囲気がありましたが、思い切って 扉を開けました。 す…

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嵐の聖地・櫻井神社(尼崎)

再建された尼崎城の公園内にある、図書館の南側に 櫻井神社がありました。 あとで調べますと、この神社は、その神社名から、アイドル グループの”嵐”のメンバーの桜井君になぞらえて多くの 女性ファンがやってくる神社だということでした。 私は、全然知らずに、何時ものようにただ目についたので、 どいう処か、少しお詣りでもと思い、境内に入りました。 【櫻井神社】 本殿側の裏手にも神社の入り口がありましたが、南に 回って表側から境内に入りました。 拝殿 本殿 【神社由緒】 当神社は、明治15年、尼崎城内に建立。 櫻井松平の祖、信定公は、戦国の世に勢力拡大に尽力、 三河安城にその基盤を築かれた。 当時の世のならいで、七代目忠頼公が、28才で亡くなり、 家が断絶するが、八代目忠重公の努力と徳川家康公の はからいで、お家再興がかなう。 十代目忠喬公の御代、遠州掛川より尼崎城に移封。 即ち尼崎初代の城主となる。 代々の城主は文芸に優れ、中でも尼崎三代目城主忠告公 は亀文と号して、「まづ霞む竈々や民の家」の一句を 境内石柱に残されている。 最後の城主忠興公は、明治10年の西南戦争で敵味方区別 なく戦傷者を看護され、これが世界赤十字に認められ、 日本赤十字社の誕生を見るに至る。 ・・・随分、新しい神社ですね・・・ 【御祭神】   櫻井信定公…

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尼崎城

そろそろ梅雨の季節になって来ました。 関西でも、あと数日で梅雨入り宣言がなされるのでは ないかという頃、晴天の日を見つけて、膝痛をかばい ながらではありますが、少し歩いて来ました。 特に目的もなかったのですが、何となく尼崎に向かい、 平成の尼崎城を見て・・・見るだけで入館せず・・・ 阪神尼崎駅の界隈をぶらぶら楽しみました。 ・・何となく足を止めたところは、尼崎城~櫻井神社 ~尼信会館~尼信世界の貯金箱博物館~寺町の お寺~貴布祢神社~等々・・ また、少しずつスナップショットなどを掲載しますが、 まずは、個人の尽力で建てられた尼崎城天守閣から のお話です 尼崎城は大阪夏の陣後、1617(元和3)年、江戸幕府 は、直割地とした大坂の西の守りとするために譜代大名 の戸田氏鉄(うじかね)に築城を命じる 約300メートル四方、阪神甲子園球場の3.4倍に相当 する広大な敷地に建てられた城は、3重の堀に4重の 天守という「5万石の大名としては立派過ぎるお城 だった」という。 このことは、幕府がいかに尼崎を重要視していたかが 窺われるところです。  尼崎城は戸田氏、青山氏、松平氏と代々譜代大名 が藩主を務め、尼崎藩政の中心にあった尼崎城だが、 明治6年に廃城。 建物は建材として街の整備に使われ、堀も埋められて しまったため、地上部分の遺構はほとんど残らなかった。 そんな尼崎城の再建を申し出たのが、尼崎市で 家電販売店の…

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甲山神呪寺

西宮の山手に、お椀を伏せたような美しい形の山が見えますが、 その特異な形から色々な伝説が伝えられています。 その伝説の一つが、190年ごろに、神功皇后が平和を祈願 して、頂上に金の兜を埋めたという話。 また、昔、頂上に松の木が二本生えており、兜の様に見えた ことから・・等々言われています。 標高は309Mほどですが、その形から非常に目立つ山です。 そして神呪寺は、この甲山の中腹200Mの高さにあり、お寺 の境内から眺める大阪平野から大阪湾にかけての解放感は 素晴らしく大変気持ちの良いところに造られています。 (曇り空ですが、梅田方面を見たところ) (境内から山門を経て、遠くに大阪湾が見えています) 甲山神呪寺 真言宗  天長八年(831)十月十八日、弘法大師空海を導師に迎えて 本堂を落慶。 淳和天皇の妃であられた眞名井御前は、この地で満三年間 の修行を経て、同日、弘法大師より剃髪を受けられて、如意尼 という僧名を授かった。 数年後には当地に淳和天皇が行幸され如意尼と相見られた と伝えられています。 本堂 御本尊   如意輪融通観世音菩薩 天長七年(830)、弘法大師が如意尼のお姿を写して桜の木に 彫られたという秘仏。 河内の観心寺、大和の室生寺の如意輪観音とともに、日本 三如意輪といわれる。  五月十八日に御開帳                  …

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北山公園から甲山神呪寺(1)

五月最終日は曇り空でしたが、久々に九州宮崎からの 友人と夙川上流の、北山公園方面のハイキングを楽しんで 来ました。 膝も心臓の調子も今一つで、少し躊躇するところがあった ハイキングですが、新緑の山道を歩き、神呪寺の 融通如意輪観音さまに参拝するころには、胸の痛みは 忘れていました。 膝の痛みは、歩くたびに絶えず気になるために、忘れる ことはありませんが、胸痛が気にならなくなったことは 収穫でした。 歩いたコースは、9時30分に阪急夙川駅で待ち合わせ。 苦楽園口まで電車。 苦楽園口から夙川左岸に沿って上流に歩き、銀水橋から 北山公園の山道に入る。 北山公園の大きな岩(イワクラも?)を楽しみながら 北山貯水池へ。 ここで12時30分頃になったので昼食。 北山公園から見た甲山 水分地蔵 お堂内は見えません 北山貯水池 その後、甲山神呪寺(かぶとやまかんのうじ)参拝。 参拝後、山門をくぐり抜けて、旧参道の坂道を下り 阪急甲陽園駅まで歩きました。(到着は2時40分ころ) 甲山神呪寺の記事は次回・・・・・・・つづく・・・・

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磐座と琴弾の滝

天石門別神社拝殿での不思議体験は、聞こえていた 子供たちの様な声が、かなりの大きさだったので、気に なりながら拝殿から本殿裏手に回り、階段下の旧社殿跡・ 磐座を経て、琴弾の滝に向かいました。 本殿から滝までは二~三分位でしょうか、本来は この滝が御神体でなかったのかと感じました。 磐座は古代に於ける祭場の跡として代表的(2,000年以上 経っているそうです。 薬師寺慎一氏の『祭祀から見た古代吉備』(吉備人出版) のなかに、宮司さんから寄せられた石積の話が載せられている。  「私の家は代々宮司職を世襲しており、私は第69代 めに当たります。 曾祖父中川寛(明治38年没)が残した記録によれば、250年 ほど前、平らな岩があり、人がそれに腰掛けて弁当を食べた ところ、神罰があった。 そこで岩の周りを石で囲んだのだそうです。 これが今の石積みで、中にある平らな石がイワクラです。 なお、御祭神の天手力男之命はこの岩に乗って飛んで 来られたと伝えられています。」  また、元禄4年(1691)成稿の美作国の地誌『作陽誌』 には、この石積は「猟師塚」で、天石門別神がこの地に 鎮座したときに案内した猟師の塚、あるいは国司の墓と 伝えられ、造られたのは近年のことなりと記されている。 池の跡 琴弾(ことびき)の滝 落差13m、幅5m 滝は2段からなり、上の滝を雄滝、下の滝を雌滝と呼ばれ…

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美作の天石門別神社

和気神社を後にして、剣道の46号線を走り、岡山国際 サーキット脇を過ぎて、古くから滝の宮と言われている 天石門別神社とその境内にあります琴弾の滝(ことびき) へ車を走らせました。 30分ほど走っていたと思うのですが、行きかう車も殆ど 出会わない山間の快適なドライブを楽しみました! 天石門別神社への道 この神社は数年前に偶然出会ったのですが、それから 二度ほど参拝させて頂いていますが、他に人がいた ことは無かったように思います。 付近にも全く家はなく、ダムと自然公園があるだけの ところです。 今回は、駐車場所に一台の軽自動車が停めてありました。 境内への入り口 神社の拝殿に上がる階段のところで、丸々と太った タヌキを見かけましたが、タヌキさんは石段下の暗がりに 隠れてしまいました。 天石門別神社拝殿 狛犬 狛犬は(阿形の狛犬、吽形の狛犬)作者・年代とも不詳である が、伝えられるところの渋谷国綱の寄進によるものと言われて いる。 約480年(室町時代)前のものである。 (※約10年ほど前、一基が盗まれたとのことで、今は 中国製の狛犬を飾っているそうです。) 特に16葉の菊花の紋章が神社の格式の高かったことを 有力に物語っている。 天石門別神社由緒  美作三宮 天石門別神社 天石門別神社 御鎮座以来御社名鎮座地の…

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和気神社

和気清麻呂は、弓削道鏡の陰謀を砕いた道鏡事件で 日本史の授業でも名前が出てきますが、備前国藤野郷 (現在の和気)の出身です。 その和気氏の氏神はじめ、和気清麻呂と広虫を祀っている のが和気神社です。 【弓削の道鏡事件とは】 称徳天皇(孝謙女帝重祚)が寵愛する道鏡を皇位に つかせると天下泰平になるという、宇佐八幡宮の御神託 があり、その神託の確認する役目を帯びて宇佐に向かった のが和気清麻呂です。 ・・この神託そのものが道鏡の陰謀によるでっち上げのよう ですが・・さすがに称徳女帝も、どこから降って湧いたか 分からない一度の神託では、他の公家達の理解が得られない と思ったのか、天皇の女官であった和気広虫を宇佐に派遣 しようとします。 だが、この広虫さんは体が病弱で余り強くないため、弟の 清麻呂を代役に立てたということです。 ・・こういう処から、道鏡からの賄賂を持ち出されるやり取り、 そして宇佐八幡での神託を受ける巫女たちとの駆け引き、 更に道鏡の命を受けた刺客などなど・・・・・ 講談話にもなりそうな話で面白い・・・ それで!!!! 【八幡大神の神託は】 「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。 無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」 を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告。 清麻呂の報告を聞いた称徳天皇は怒り、清麻呂を 因幡員外介に左遷、さらに別部穢麻呂(わけべ きたなまろ)と改名さ…

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