多井畑の猿田彦神社

多井畑厄神さんの裏手側の山蔭の様な、道路から数メートル 下がったところに、何時のころから祀られているのか、猿田彦 神社といわれるところが在ります。 地元の人からは山神(さんじ)さんと呼ばれているそうです。 多井畑厄神さんの裏手側?の参道入り口 厄神さんの裏手、道路を隔てたところに猿田彦神社が あります 鳥居をくぐって振り返ると厄神塚の丘が見えます  祭神は猿田彦大神(天狗さん、道開きの神様)、古くから村内  で山神講(さんじこう)としてお祀りして、毎年10月17日に例祭  を行っている。  厄神さんの北向かいに鎮座しています。 このお社では、大きなウバメガシの木が枝を広げています! 神戸市内では最大という事ですが、かなりの古木です。 根回り4.5メートル、枝の広がりが20メートルを越すそうで 樹皮にはヒトツバや地衣類が着生しています。 このウバメガシの木は、数メートルの塚の様なところに 根を張り、この木を祀る様に、小さなお社が作られています。 元来は、このウバメガシの木が神木としてあがめ祀られていた 依り代ではないかと思いますが、どうでしょうか? ただ、私自身の考えですが、ここから北へ数キロ離れた 白川の地に山伏山神社という、猿田彦さんを祀る神社があり、 鷲尾家の氏神さんと言われています。 この鷲尾家は、源平合戦の折に、源義経の道案内をした旧家 ですが、この鷲尾家の分家?が多井畑にあり、…

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最古の疫神祭霊地

神戸市須磨区多井畑の小高い丘の上に鎮座されています、 多井畑厄神八幡宮は今迄も何度か書いていますが、また あらためて紹介させて頂きます。 この辺りは、須磨の海岸線から見ると、山(鉢伏山)一つ 越えた裏手になります。 古代においては、須磨の海は入江が通行の妨げになって おり、海岸沿いは通行困難になっていました。 それで塩屋や明石に抜けるには高倉峠を越えて多井畑へ 抜ける道が利用されていました。(古山陽道) 今の様に須磨の海岸線が利用できるようになったのは 平安時代の末期ごろからだそうです。  それでも海が荒れ ると通行が出来なくなることもあったそうです。 そして、須磨から鉢伏山、旗振山をへて多井畑厄神に続く 処は、摂津国と播磨国の国境と定められていました。 この国境の高地に厄除けの神様を祀り、畿内に災いが 入らない様に疫神(やくじん)祓い祭りを行ったという! この多井畑厄神八幡宮の由来として、神社の話では 【神護景雲四年八月甲寅の日、京の四隅と畿内国境の 十か所の地を選び、疫神(やくじん)祓祭りを行わせ給ひしに はじまりし。 其の遺跡は当社の後方高地に約一反歩の地域有りて 四囲めぐらすに築土の如き物を以てせる形跡あり、厄除の 霊地として世人の崇敬篤く、後に八幡宮を勧請。 中古以来、一月十九日の疫神祭日には、徹夜参拝者夥しく、 ・・・云々 実にわが国最古の疫神祭りの霊地にして、神徳…

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御崎八幡神社と厄除け

薬仙寺と道路を挟んだ向かい側に、御崎の厄神さんと 言われる、御崎八幡神社があります。 創建年代は不詳ですが、貞観年間(859~876年)に豊前国の 宇佐神宮(大分県宇佐市)から山城国男山山頂の石清水八幡宮 (京都府八幡市)へ大神を勧請し鎮座したのと同時代の創建で あると伝えられています。    寛文8年(1668年)に石清水八幡宮公文所より当神社に下附された 金幣に、石清水八幡宮と御崎厄除八幡宮は同時代の創建であると 記されている。 神功皇后が新羅遠征の帰途、この地に滞在。 その時に村人が神功皇后の神馬に兵庫の津で採れる海草を 秣(まぐさ)として献上した。 貞観(859~876)年中に、「神功皇后が、西征帰京の際に、 この地をしばらく皇居とした。」とのお告げがあり、 当地に神社を建立したのが始まりとされる・・という話も あるそうです。 ともあれ、当神社は石清水八幡宮と古くから関係があり、 公文所御鍵預かり役に任じられ、毎年春秋の大祭には 男山へ鍵を持って行き奉仕し、御崎の神馬秣を奉っていたと 神社古文書に記されているそうです。 昭和20年の神戸大空襲により社殿焼失、昭和31年に現状に 復興。 拝殿と稲荷社 御祭神    ・応神天皇    ・神功皇后    ・姫大神 (宗像の三女神?) 手水鉢と阪神大震災で折れた鳥居     とこ…

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薬仙寺と萱の御所

兵庫区の真光寺、清盛塚から兵庫運河を越えたところに あります、御崎八幡神社、薬仙寺、和田岬神社、三石神社 と、回って来ました。 真光寺、清盛塚、和田岬神社、三石神社は以前に記事に していますので、今回は御崎八幡神社と薬仙寺について 書いてみます。 新川運河の先にお寺(今出在家町方面から見た所)後ろ姿 【医王山薬仙寺の寺歴】 薬仙寺の創建は天平18年(746)、行基菩薩によって 開かれたのが始まりと伝えられています。 行基が日本で最初の施餓鬼会供養を行ったとも伝えられ ています。 ☆ 「施餓鬼」は「餓鬼に施す」という意味で、施餓鬼会は 六道輪廻の餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を施し、その 霊を供養する法会です。 境内には「大施餓鬼会日本最初之道場」と陰刻された 巨大な碑が立っています。 平安時代には千憎寺塔頭の1つとして、千人の僧を招いての 千僧供養が行われていたとされ、政争で敗れた第65代花山 天皇も当寺に滞留した際   有馬富士ふもとの霧は海に似て                 波かと聞けば小野の松風  の歌を残したと伝えられています。 当初は天台宗の寺院でしたが承元元年(1207)法然上人 が当寺を訪れた際、浄土宗に改宗 さらに延文年中(1356~60)に霊山国阿が再興した際、 時宗に改宗、現在に至っています。 境内には、平清盛が後白河法皇を幽閉した…

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佐比江の猿田彦神社

今は全く面影は見られませんが、現在の兵庫区佐比江町や 須佐野というところには大きな入江がありました。 その佐比の入江付近は江戸の寛政頃には花街として大いに 栄えていたそうです。 しかし、明治の28~9年ごろに埋め立てられ市街地が作られ 現在に至っていまが、現在の町名で、入江・佐比江・須佐野 などの名が残っています。 この現在の佐比江の街角に小さな神社がありますが、それが 猿田彦神社です。 猿田彦大神は魁の神として常に神々の先頭に立って道案内を 務められる神で、天孫降臨の時、皇孫瓊瓊杵尊を天八衢に立ち 向かえ云々とあり、災難除けの信仰がある。 即ち海上では船霊神、路上にあっては交通の守護神として 衆庶の尊崇が厚い。  当社の創立はつまびらかではないが口碑によれば、元矢田郡 白川村に鎮祭されていたが、平清盛福原に都を定め、兵庫築港 に際し七日七夜の参籠の後、祈願を込めたるところ難事業に成功 したので、後年此の地に奉遷したと伝えられる。 元禄九年の『兵庫津絵図』には佐比江を内海と記し、その入口は 九~十一米であるが、長さ二百十七米、横三十六米の入江を画き、 その岸が七宮神社の北に迫り湊口惣門の東にあった番所のそば まで海になっている。 元禄の頃の佐比江の入江が如何に深く湾入していたかが知られる。 室町時代東大寺所管の兵庫の北関があったのはこの辺りの地点 であろうと言われている。 …

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西出鎮守稲荷神社のビリケンさん

松尾稲荷神社から、新開地方面に戻り、多くの車が行き交って いる国道二号線を渡ると、その二号線沿いに西出鎮守稲荷神社 が確認できます。 こちらの西出鎮守稲荷神社は以前に参拝していますが、その時は ビリケンさんについて特に関心もありませんでしたので、 ビリケン像を確認しませんでした。 今回は、拝殿内に置かれているビリケン像を外から見ることが できました. 【西出鎮守稲荷神社】   由緒書によれば、当社の沿革は定かではないものの、寛政 年間(1789~1801年)には既に鎮座しており、商売繁盛・交通 安全・防火守護の御利益のある「ちぢみさん」として、西出町の 住民に親しまれています。 また、境内の一角には文政7年(1824年)に海の豪商として 活躍した高田屋嘉兵衛から献上された石灯篭があり、その他にも 平清盛の弟・経盛の第二子である平経俊の塚があります。 祭神  主祭   宇賀魂命 【境内社】   日向社     安産守護   白竜社     浄水守護 【ビリケン像】(ビリケン菩薩) 【 高田屋嘉兵衛の献上灯篭】 文政7年(1824年)に嘉兵衛が海上安全を願って献上した 石灯篭であるとされています。 【平経俊乃墳】(平経俊塚) 平清盛の甥である平経俊の墓所であり、現在では子供の 守護神…

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神戸のビリケンさん松尾稲荷神社

湊川神社参拝と宝物殿の見学を終えたころ、丁度お昼時 でしたので、湊川神社近くのビリケン倶楽部というところ に入り、カレーを食べました。 (このビリケン倶楽部さんのことは、神戸の事をいつも 詳しく丁寧な記事にされている、アルクノさんのブログで 知りました) 店内にはビリケンさんの像や絵、人形などが飾られています。 カツカレーを頼みましたが、最初フルーツの様な甘さを感じ、 甘口? と思いましたが、食べているとじんわりとスパイスが 効いてくるようで、食べ飽きないスッキリした味で、美味しく頂き ました。 マスターも気さくな方で、神戸のビリケンさんについて色々教えて 頂きました(有難うございます!) ところで ビリケンさんは幸福の神様と言われ、1908年、アメリカの女性 芸術家 フローレンス・プリッツが「夢の中で見た神様」をモデル とし制作した作品が起源だそうです。 大阪の通天閣に置かれたビリケンさんが日本では有名ですが 神戸では、神戸市兵庫区の松尾稲荷神社に、大正初期に 作られたビリケン像が祀られています。 ・・・・という事で、後日、新開地駅で下車し、旧湊川跡の新開地 本通り商店街を南に下り、国道二号線を越えて、昭和レトロな 空気が残る東出町の松尾稲荷神社を目指しました。 その前に、湊川公園の大楠公像にご挨拶 (すぐ後ろで区役所の建替え工事中でした) 新開地付近の地図 松尾稲…

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湊川神社宝物殿

一月も半ばを過ぎ、お正月気分も薄らいだところで、昨年末に 参拝しました湊川神社へ改めて参拝して来ました。 本殿では、近所の保育園の園児が手を合わせていました。 本殿内の天井画 正成公の旗印? 大楠公と一族郎党自害の地 楠木正成は和田岬に陣を敷いていた新田義貞との連携を分断 されたのを知り、決死の戦いを挑み、一族郎党700余騎を引き 連れ、足利直義の軍勢に突撃を敢行。 6時間に及ぶ合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行い、 楠木軍は次第に数を減らし、ついに73騎になっていた。 疲弊した彼らは湊川の東にある村の民家に駆け込み、正成と 正季は刺し違えて自害し、残りも皆自害した。 また、このとき菊池武吉が兄菊池武澄の使いで須磨口での戦い の様子を見に来ていたが、彼は正成の自害する場に行き、 見捨てることができないことを理由にともに自害。 (ウィキペディアより引用) 1336年7月4日(建武3年5月25日)。享年は42歳前後だった ということです。 大楠公のお墓と水戸光圀像 明治天皇御製 湊川懐古      あた波をふせぎし人はみなと川               神となりてぞ世を守るらむ で、湊川神社の詳しい説明は省かしていただき、今日は宝物殿を 見るのを楽しみに来ています。 木曜休館。拝観料 大人300円で入館。 …

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頼政薬師

山陽電鉄須磨寺駅すぐ近くの住宅地に囲まれ、目立つことなく、 参拝する人も少ないところです。 特に阪神淡路の大地震で堂塔が倒壊したために お寺を建て直したそうですが、一見、普通の住宅の様に 見えてしまいます。 山号を上野山といいます。 須磨寺の末寺で、西須磨の旧家前田氏の建立と 伝えられている。 ご本尊は聖徳太子作の薬師如来でその両脇に 小振りですが十二神将が護っています。 久寿の頃(1154~1155)源三位頼政が再興したことから 頼政薬師といわれている。 本堂と脇士十二神将は尼崎藩主青山氏の寄進と伝えられ ている。 西須磨地区は尼崎領であった。 明治以前浄福寺では毎年1月8日に薬師統人といって この里に集まる儀式があり、座敷に松竹梅の三宝を飾り その上座には薬師如来をまつり全員がかみしもを着用し 謡曲で興がそえられた。 この儀式に参加することではじめて村人と認められた。 夜には鬼追式が行われ、鬼踊りと称して仮面をかぶった 鬼が里人を狂ったように追い回したという。 この鬼追い式は非常に有名で当時の須磨一番大事な祭り であったと言われている。 最近は形を変えてこれらの伝統行事が受け継がれ、西須磨 協議会会員が中心になり、同じ1月8日に西須磨地域の 繁栄と家内安全を祈願している。 平成7年(1995)1月17日午前5時46分に起きた阪神・淡路 大震災で倒壊した本堂は平成11年11月再建された。…

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生田神社 初詣

お正月の三が日を過ぎ、少し落ち着いたところで、三宮の 生田神社へお参りです。 一月の四日ということで、参拝者で参道が埋まるという こともなく、程よい人の流れで、スムースなお参りが 出来ました。 昨日は地元の神社にお参りしましたが、そちらは お参りする人もまばらで、普段と特に変りもなく少し寂しい 感がありましたが、流石に神戸の中心地を代表する 生田神社には華やかさがありました。 生田神社の本殿です。 ご祭神は 「稚日女尊」(わかひるめのみこと)。 伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神の和魂 あるいは妹神と伝えられ、稚くみずみずしい 日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を ご加護する神様 また、 アマテラス大神に仕える機織りの神さまで、 “若くみずみずしい日の女神”という意。 糸と糸を織りなす神さまであることから、人と人を 結ぶ“縁結び”の女神として信仰されています。 拝殿内には 住吉神社   海上安全・交通安全の神 【御祭神】 表筒男命 中筒男命 底筒男命 八幡神社   厄除け 開運 【御祭神】   応神天皇 諏訪神社   農耕狩猟・武運長久・力の神 【御祭神】 武御名方命 日吉神社   農工業・五穀豊穣の神 【御祭神】 大山咋命 が、拝殿内の左右にお祀りされています …

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亥年の摩利支天

平成31年の新年を迎え    みなさま  明けまして おめでとうございます! 昨年は多くの方に訪問頂き 本当に有難うございました ! 初めての出会いや、コメントも有難く感謝しております 今年もマイペースの投稿になりますが 宜しくお付き合いお願い頂ければ嬉しく思います 今年は清々しい朝日が見られました 大阪湾上の新年の朝日の写真でご挨拶させて頂きます ////・・・・・・////  今年の干支は、【いのしし】ということで 亥年(生まれ)の守護尊天として、摩利支天の話です ・・・折しも昨年末(30日)の地方ニュースで 来年の干支、イノシシにまつわる神が今年の厄を払う。 初詣でもにぎわう四国霊場第85番札所の八栗寺で 摩利支天像が発見され、来年の三が日限定で御開帳 される。 五剣山の中腹に位置する四国霊場第85番札所・ 八栗寺(香川・高松市)。 本堂に安置されているのが発見された「摩利支天」像。 江戸時代中期以降の作りとみられ、高さは15センチほど。 3つの顔と6本の腕を持ち、来年の干支イノシシに またがって災いを避ける厄除けの神として信仰されている。 ・・・というタイミングの良い話もありました 私も、昨年末に神戸の湊川神社で、摩利支天信仰の 武将、 楠木正成公に参拝したこと。 それと亥年の…

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湊川神社と摩利支天

今年もあとわずかになりました。 皆様にはどの様な一年だったでしょうか? 少しばかり気が早いのですが・・・・・ (早い行動力が気・運を動かしますことを願い) 来年の干支が“亥”という事で、イノシシに乗り、猪の様に 迅速に行動する事で、開運勝利・護身蓄財に大きな 働きをされます、摩利支天さんにお参りして来ました。 摩利支天は、元来バラモン教の神が仏教に取り入れられ、 仏教を守る、護法善神として天部に位置づけられたものです。 今回参拝しました神戸の湊川神社ですが、実は何処にも 摩利支天は書かれてはいないのですが・・・・・・!!!! 湊川神社 後醍醐天皇の為に忠義を尽くして働き、この地で 足利尊氏に敗れ自害した、楠木正成(大楠公)の神霊を 主祭神とし、子息の楠木正行(小楠公)および湊川の戦い で斃れた一族十六柱と菊池武吉の神霊を配祀。 戦後になって大楠公夫人久子の神霊も合祀されています。 また、神戸七福神霊場では、毘沙門天(多聞天)の霊場として 知られています。 それは、正成公の母親が毘沙門天が口に飛び込む夢を見て 生まれた子が正成(幼名 多門丸)ということから毘沙門天の 霊場とも言われます。 では、摩利支天との繋がりや如何に?という事ですが・・・・・・・・ それは、楠木正成公が、自身の兜の中に摩利支天の小像を入れて 勝運勝利・迅速果敢・護法護身を祈り、日々の命懸けの戦闘に 臨んでいた…

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絵馬にご注意!

間もなく新しい年を迎える時期になり、日々忙しくされておられる 事と思います。 さて、新年になれば神社やお寺にお参りし、新たな気持ちを絵馬 に託して願い事などを書かれるのですが、最近は少し注意した方 が良い様です! 今日(28日)の読売新聞(くらし)欄の中に 『絵馬の情報シールで守る寺社、SNS拡散を警戒』 と言う記事が目に付きました! 今まで、特に気付かなかった事なので、改めて酷い時代に なっているな、という印象を受けました。 記事の内容主旨は ●境内に奉納された絵馬には、受験の合格祈願や好きな人への 想いなど、様々な熱い願いが書かれていて、参拝した際に ついつい読んでしまうこともある。 しかし、SNS社会となった現代においては少し事情が変わってくる。 他人の絵馬を撮影した参拝客が、面白がって好き勝手にコメントを つけて、無断でSNS上に投稿する。 顔も知らない誰かに、ネット上で晒し者にされるという事態が 起こっているという。 更に、より注意するべき事として、絵馬には願い事だけでなく 名前や住所、或いは生年月日などの個人情報が記載されている ことも多いという事です。 この様な事態を受け、群馬高崎市の達磨寺では、希望者に 願い事や個人の情報が隠れるシールを配布。 京都の下賀茂神社の相生社では、10年以上前から 「目隠しシール」を配布。 ・・・・修学旅行の高校生らが、恋愛に関…

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僧尾の観音堂・農村歌舞伎舞台

神戸市北区淡河町南僧尾という稲田が拡がり、住宅もまばらな 丘陵地帯に古くからのお堂があります。 石峯寺の参拝帰りに寄ってみました。 この観音堂のあることは知っていましたが、今まで何度か 探して分からなかったところなので、前もって地図を確認し ようやく行き当たりました。 南僧尾の観音堂 室町時代後期 様式 和様、桁行三間、梁間四間、茅葺入母屋造 概要 承和7年(840)創建と伝える恒例山新善寺の元本堂です。 新善寺は天正6年(1578)兵火で焼失しましたが、本堂は焼失を 免れ、豊臣秀吉の命で修復されました。 以後村の観音堂として守られ、仏壇内で発見された「堂頭日記」は、 延徳元年(1489)~天正12年(1584)の村人の生活記録として 貴重です。 境内の地蔵堂は、厨子と共に17世紀後期の建立と推定、 「鶴沢大助太夫之碑」は、当時の浄瑠璃の流行をしのばせます。 観音堂は、四面に庇を設け、三面は縁、背面の庇は後陣に取り 込みます。 柱は円柱、隅柱上にだけ舟肘木を備え、正面三間と両側面前方 第一間を扉構えとし、その他の柱間は板壁、堂内は前3間、後2間 に二分します。   和様の、全体に簡素な建物です。 造立は「堂頭日記」冒頭の御頭行事の記載から、堂の建立は 延徳元年を下らぬことが察せられますが、特定できていません。 須弥壇は禅宗様、厨子は方一間、和様を基調とした折衷様で、 観…

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龍伝説の残る石峯寺

随分長く苦しんだ咳も少し和らいだので、気分転換のため ドライブに出掛けました。 行先は神戸の淡河(おうご) 方面に決めて、石峯寺から南僧尾観音堂、北僧尾の 農村歌舞伎舞台などを見てきました。 神戸とは言え、丹生山系を越えた、神戸市北区淡河の地は 農村風景が広がり、長閑なところです。 この淡河の地を三木から三田方面に横切る様に走る県道 38号線は、途中、西宮や有馬方面へも続いています。 かって、羽柴秀吉が別所長治の三木城を攻めた際には、 戦闘で傷ついた兵士を、有馬温泉へ湯治に通わせたと いうような話が残る道路です。 秀吉の中国攻めの途中。 この辺りでは信長に反旗を 翻した三木の別所長治の三木城(三木の旱ころし)も そうですが、容赦ない秀吉軍のために、別所長治を 支援する丹生山の明要寺の僧兵、稚児など多くの 犠牲者を出しています。 この神戸市北区淡河神影の山裾に法道仙人や龍神伝説 が残る、石峯寺(しゃくぶじ)と言うお寺が有ります。 かなり以前、神戸十三仏のお参りで来たことが有りますが、 今回、またお参りして来ました。 現在は真言宗のお寺で、御本尊は地蔵菩薩 山号は岩嶺山   神戸十三仏霊場 薬師如来 県道沿いに石峯寺参道の碑 石峯寺山門 山門から本堂に向かって一直線に参道が伸びています。 かっては、この参道両脇に多くのお寺があったのではないかと 思われます。 …

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神戸西区の顕宗・仁賢神社

ここ最近、風邪を引き、ずっと咳が止まらない状態です。 夜、床にはいると咳がよりひどくなるので眠れず困ります。 ただ熱が出ていないのが幸いですが、ブログ更新も出来 ません。 それで ずっと以前に記事にしたものの再掲です。 時期も10月ごろの記事ですので、今の季節感とは 少し違いますのでご容赦下さい(コスモスなど) 小さな神社ですが、気品が感じられるところです! 神戸市西区の木津に祭られています神社ですが、23代顕宗 天皇(弟) 24代仁賢天皇(兄)がお祭りされています。 雄略天皇から逃れるため顕宗・仁賢兄弟が幼少時、押部谷の 忍海部造の細目の家にかくまわれていたという伝説に由来が あると思われ、別名木津の宮、紫の宮とも呼ばれているところ です。 神社はのどかな風景の広がる中にあります。 遠景のなかに見える左手の茶色い建物は、農村歌舞伎の 行われるところのようです。 顕宗天皇・仁賢天皇とこの土地のつながりについての伝説が あります。(ウィキぺディアより参照) 安康天皇3年10月1日(456年11月14日)父市辺押磐皇子が 雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に 逃亡して身を隠した。 丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国 明石や三木の志染の石室に隠れ住む。 兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、 縮見屯倉首(しじみのみやけのお…

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火渡り・須磨寺柴燈護摩

一週間前からぎっくり腰で困っていました。 最初の2日間は立ち居振る舞いが出来ないくらい酷く 起き上がるのにも時間が掛かる状態でしたが、その後 何とか動けるようになったものの、左腰の痛みがひどく、 時に一人で”イタイイタイ”などとつぶやきながら生活 していたためにブログの更新も出来ませんでした。 一昨日辺りから少し動けるようになりましたので、今日は 須磨寺の柴燈護摩と火渡り行を見物に行って来ました。 この行事もすでに8回目になるそうで、境内は多くの 参加者と、それを見る見物人やカメラマンで賑わって いました。     柴燈護摩 午前11時から行者衆が本堂で法要を済ませた後、 法螺貝の音を響かせながら野外にしつらえた護摩壇 の場へ入場。 行者衆には、行者装束を身に着けた稚児行者も混じって います。 柴燈護摩作法  式衆が道場内に入ると、色々な儀式が行われます 九字法  床堅作法  法斧作法  法弓作法   法剣作法  点火作法  願文奏上  などの儀式が 続きます 法剣作法 法斧作法 法弓作法 点火    火渡り行 火渡りは、正式には火生三昧耶法。 火生三昧は心を静めて一つの事に集中し、身体から智慧 の火を生じるような状態をいいます。 密教では、お不動様と一体となった状態をいいます。 智慧の火によって煩悩を焼き尽…

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宇陀の墨坂神社から曽爾高原

今から20数年前の職員研修で相部屋になり、1週間ほど 奈良で生活を共にした四人。 今は皆共に退職して年金で 細々と暮らしていますが、年に一度会うのを楽しみにしている 様な知人がいます。 例年なら春頃に会う事が多いのですが、今年は私の 家内の入院手術などで時間が取れず、この季節になって しまいましたが、会う日取りを決めるために連絡を取ると、 その内の一人が先月末に亡くなっていることが分かり 本当に驚きました! 日頃は、年賀状だけで、特に連絡することも無かったために 分からなかったのですが、奥様の話では癌だったそうで、 余り苦しむことも無く亡くなったという事でした。 今迄持病があるような話を聞いたことも無く、競馬とお酒 好きな男でしたが、同年代の仲間と会えなくなる寂しさを 感じさせられました。 その為、今日は残った三人で会う為に宇陀の榛原まで 行きました。 榛原は、毎年会って食事をしたり、温泉に入ったりドライブ した思い出の場所として、この日は三人で待ち合わせ しました。 待ち合わせ時間より、早く着きましたので、近くの 墨坂神社までお参りして来ました。 墨坂神社は二度目の参拝です! 榛原付近地図 墨坂神社遠景 祓い戸社 拝殿と絵馬 墨坂神社由緒(神社HPより) 御由緒 日本書紀の、神武天皇即位4年春の詔に「乃立霊畤於 鳥見山中、其地号曰上小野榛原・…

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海神社(神戸・垂水)

垂水漁港に立つ大きな鳥居がこの神社の性格を 示しています。 神社の名前からも海、漁業、船運などにに関連して いることが分かります。 通称では”かい神社”と呼びならわされていますが、 正式には”わたつみ神社”というそうです。 (境内から漁港方面をみたところ) (国道2号線から境内を見たところ) 由緒 今から千八百年前くらいの昔、神功皇后が三韓よりの 帰路、暴風雨のため、どうしても御座船を進めることが できなくなりました。 皇后御みずから綿津見三神をお祭りになり、御祈願され ましたところ、たちどころに風波がおさまり御無事に都へ 御還りになりました。 その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに 御社を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。  この御神徳により、航海安全・漁業繁栄の神として 仰がれることはいうまでもなく、さらに当地が海上陸上を 問わず、古代交通の要地であったことから、交通安全の神 としても仰がれております。  又海は万物をはぐくまる所、綿津見大神の娘 豊玉姫尊 は彦火々出見尊に嫁がれて、皇室の親である鵜鶿草葺不合尊 をお産みになりました。 そのとき大変安産であったところから、安産の神でもあり、 彦火々出見尊は満珠干珠の霊力によって水をつかさどり、 厄難を去る神であるところから、水産業・農業をはじめ水に よって生計を立てる人の守護神であり、開…

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須磨寺音楽法要「夜音]

10月8日祝日の夜。 須磨寺で音楽法要『夜 音』という 催しが行われました。 今年で何度目の開催なのか? 分からないのですが、 秋の冴え渡った夜の空気感が満ちている境内には、多くの 参拝者が見えていました。 須磨寺一弦琴の「青葉の笛」の演奏から始まり、真言宗と 天台宗の僧侶の声明。 般若心経。  須磨寺副住職の読む願文には、敦盛菩提寺としての、 敦盛法要、天災人災からの国土の平穏祈念、そして参列者の 家内安全・無病息災などが祈られていました! そして、特別音楽法要 で、『神 紗』というグループによる、和楽(笛・太鼓・舞)の 迫力ある演奏を楽しむことが出来ました。 当日の写真です・・・・・・ 敦盛の青葉の笛 敦盛像 平家の赤旗(六字名号) 夜6時から8時過ぎまで、楽しい秋の一夜でした。 (このお月さんは少し前の写真です)

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六甲山と磐座

今年は大きな台風が次々と日本列島にやって来ています。 風水害や山崩れで大きな被害が起きていますが、自然の 中で住まわせて貰っているという感を強く再認識しています。 そんな中で、古代の人々が自然に込めた思いを再確認する 意味で、今から8年程前の記事を再掲して見たいと思いました。 以下(再掲)・・・・・・・・・・・ 今日、西宮夙川公民館で『六甲山の磐座』 (縄文の人と神とその斎場)という講演を聞きにいきました。 講演はNPO古代遺跡研究所の中島和子(なかじまよりこ)さん という方でしたが、車いすを利用されていましたが昭和3年の お生まれとは思えないほど元気で非常に有益な話を聞かせて いただくことができました。 内容は古事記の言霊の話から三貴神、人、神、祈りといった ことから人間としての生き方の基本のような事まで示唆に 富んだ良い話になんども頷いていました。 少し話された内容を要約しますと ◎ 古事記の原典は「天津古世見」(あまつこよみ)というもの    があった。   漢文の古事記では日本語の言霊の真意は書き尽くせない。  (例) 天地初発之時 於高天原 成神名 天之御中主神・・・   と漢文で書かれているが、日本語の言霊では 「あめつち はじめてひらけしとき たかまのはらに なれる かみのなは あめのみなかぬしのかみ・・・」   つまり、漢文の「天地」は「てんち」てんとちという事…

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枚岡神社・八代龍王社・石切神社

今から10年少し前になりますが、ハイキングを兼ねての 神社参拝によく行きました。 そんな頃の記事の一つですが,この枚岡神社を起点にして 暗峠越えで奈良方面に歩いたり、八代龍王社を経て 瓢箪山駅の方に歩いたりと、懐かしいところです・・・・・・ 近鉄奈良線枚岡駅~枚岡神社~枚岡公園~八代竜王神感寺 ~鳴川峠~千光寺~元山上口駅~石切神社奥の院(上の社) ~石切神社    と歩いてきました。 駅すぐに河内国一の宮の枚岡神社があります。 こちらのお宮は元春日と呼ばれ、奈良の春日大社はコチラの 神様がご分祀されています。 ご祭神   第一殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと)   第二殿 比賣御神 (ひめみかみ)   第三殿 武甕槌命 (たけみかづちのみこと)   第四殿 経津主命 (ふつぬしのみこと) 天児屋根命は中臣氏の祖神。そして藤原氏の祖神。 武甕槌命は鹿島の神 経津主命は香取の神 共に藤原氏の春日大社に勧請。 同時に枚岡神社にも 勧請。 枚岡神社の横手から枚岡梅林を抜け、神津嶽を目指します。 神津嶽 社伝によれば、神武天皇紀元前3年(神武天皇即位の3年前)、 神武天皇の侍臣で中臣氏の祖の天種子命が、天皇の命で 神津岳の頂に祖神の天児屋根神を祀ったのに始まると 伝えられる。 神津岳あるいは神津嶽)の頂が平らな丘であったことから 「平岡(枚岡)」の社名が生まれたという。 …

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長田神社

神戸の長田区にあります長田神社は神戸の他の多くのお社と 同様神功皇后ゆかりのお宮であり、事代主神をご祭神に 御祭りされています。 ・・・・『日本書紀』によると、神功皇后摂政元年(201年)2月、 神功皇后が三韓征服後、新羅から難波に帰還する途中、 武庫の水門(現在の駒ケ林あたり?)で船が進まなくなった ので占ったところ、事代主の神より「吾を長田国に祀れ」と 神託を受け、創祀されたという・・・・・・・・・・・ こちらでは、毎年の節分に、古式のついな式が行われる事で 有名です。 一般に豆まきの行事の鬼は、不吉なもの、災いをもたらすもの としてこの鬼を追い払い、立春の新しい年の家内安全、無病 息災を願うのですが、 長田のついな式の鬼はその意味を異にし、 神々のお使いとしての鬼であり、神々に代わって全ての災いを 払い清めて、清々しい良い年を迎える事を祈り踊る意味がある そうです。 また、長田神社の境内奥には、アカエイの絵馬で”痔病平癒”の 霊験があらたかな楠宮稲荷社があります。 大阪湾に流入する、苅藻川の上流に鎮座するこの地で、古伝に よると 六世紀頃の初秋、繁殖のため岸辺近くに寄って来ていた赤エイの 群れが夜の台風で増水した川を遡り、水でひたひたの境内に入り、 近在の人がこれを見つけて捕獲しようとその後をおったが、 ご神木の「樟」の付近で見失ってしまったという。 以来、このご神木は、神の化身であ…

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祓戸大神

以前は神社参拝のブログとしてはじめたのですが、年齢と共に 神社参拝で遠出することも無くなりました。 それで、初心を見つめる気持ちで、神社関連の古いブログ記事 を記事を書き足しながら、少しずつ再掲していこうと思います。 もちろん、最新の記事も交えてになりますが、良ければ見て 下さい! 祓戸神社(春日大社) 神社境内に入ると、祓戸四神をお祀りする小さなお社が 見かけられるのですが、ゆっくりと手を合わせる参拝者も 少ない様に思います。 でも本当は大事なところなんですね! 伊弉諾命も禊ぎ祓いの後に多くの神々と共に、最後には三貴神 が生まれていることからもその大事さが分かるのではないでしょうか! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 祝詞に神イザナギの命が、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 御禊祓え給ひし時に生座る祓戸の大神等。諸のまがごと罪穢れを 払ひ賜へ清め賜えと申す。。。。と書かれていますが、 みそぎ祓いの「み」は身で身体、物質などのことで、 「そぎ」はすすぐの意。 身体、物質界の大掃除。 祓いは払い。 洗いのことで、心や身体の垢を洗い去る意。 祓戸の大神とは瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売 (セオリツヒメ・ハヤアキツヒメ・イブキドヌシ・ハヤサスラヒメ) の四柱の神。 まがごと、は神意に外れる事。 罪は、包み隠す事。悪…

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夢野の熊野神社

氷室神社参拝の帰り、こちらも平清盛が勧請した熊野神社へも お参りしました。 神戸の平家にゆかりのある場所は、今の神戸市兵庫区の福原 を中心に山裾から海岸線まで広がっています。 この夢野・石井・荒田・平野といったところは、平家一門の別邸 が建ち並んでいた処です。 清盛が福原に都を移す決意をしたのには、色々な理由が あったようですが、その一つに 安元3年(1177)4月、京の都で大火災が発生し、都の三分の一 を焼失すると共に、引き続く飢饉で京は荒れ果てしまった。 清盛は復興が遅々として進まぬのに嫌気がさし、急遽8月4日 に都を神戸福原に移す決定をなし、年号を「治承」とした。 大輪田の泊を修復し日宋貿易の拡大と、清盛の権勢を持って この兵庫の地に都を移した平清盛の夢の跡が今も神戸には 淡い夢の様に偲ばれるところが多く残っています。 夢野の熊野神社 この熊野神社は、 平清盛が福原遷都の際、皇城鎮護の神として、後白河法皇 のご崇敬の厚い熊野権現を勧請し、この地に祭祀したところです。 平安末期、歴代の上皇は何度も熊野御幸を行い、熊野信仰 が一つのブームとなっていました。 後白河上皇はは34度、清盛、重盛(清盛の嫡男)らも度々 参詣しました。 清盛の根強い熊野信仰は、福原でも忘れずに熊野権現を 勧請したようです。 然し、まもなく京都に還幸になったので地元夢野の住人が 産土神として尊信し、縁結び…

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夢野の氷室神社

今日、八月の十五日、普段は会えない友人と会い、ぶらりと バスに乗り、神戸は兵庫区の山手のパワースポットと言われる、 氷室神社付近を回って来ました。 この氷室神社付近は夢野の地と言われ、古くは仁徳天皇から、 平清盛、楠木正成などとも所縁のある所です。 また、何時のころからか、恋愛成就に絶大な御利益が期待 出来るパワースポットとして若い男女から人気のある神社 になっています。 私が参拝した時には、誰も他に参拝者が居ませんでしたが、 恋愛成就を願う絵馬や、愛の手紙に愛のポストと言った アイテムが、他の神社との違いを際立てていました。 夢野の氷室神社へは、神戸駅前のバスターミナルからバスに 乗り、夢野3丁目で下車。  バス停から北へ5分程歩いた 山裾に鎮座していました。 氷室神社由緒 創立年月日は詳らかでは無いが、神社の鎮座する夢野の 地は元来、禁野といい、昔、高責な方の墓所、皇室の 御料地としての殺生禁断の地でした。 仲哀天皇の時代(西暦200年頃)に、香坂皇子、忍熊皇子 は、ご自分が位に継ぐことをお考えになり、この地で狩りを 行って占いました。 しかし1日中何も捕まえる事が出来ず、香坂皇子は猪に 襲われて亡くなってしまいました。 そしてこの地に墳墓が築かれました。 仁徳天皇の時代(西暦374年)に、兄の額田大中彦皇子が この地に狩りに来られた時に氷室があるのを見付けられ…

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走水(はしうど)神社

今迄にも記事にしたことのある神社ですが、またまた懲りずに 記事にしたいと思います。    神戸の元町通り商店街は、旧西国街道に沿った道筋が、 そのままで、現在ではアーケード商店街として神戸市民に 親しまれている所です。 かっては、元町通り6丁目には三越百貨店があり、その また先には新開地の歓楽街もあり、多くの人が、買い物や、 映画・演劇見物などで賑わっていた処です。 現在は、残念ながら、昔の賑わいは無くなり、人の流れも 三宮が中心になり、元町通りを歩く人も大変少ない様に 思います。 そんな、元町通商店街の5丁目に走水神社が、通りに背中を 向けるようにして鎮座しています。 ちなみに、走水と書いて【はしうど】と読み、昔は辺りを 走水村と呼んでいたそうです。 元町通りから神社方面を見ると 神社側から元町通り商店街方面を見ると 走水神社 走水神社は旧走水村の氏神で、社伝によると1100年以上の 歴史を持つ由緒ある神社である。 五穀豊穣・健康長寿・商売繁盛に学問の神様といわれ、書道の 神としても有名で、社殿の脇には筆塚がある。 菅原道真が祭神なので、狛犬ではなく狛牛が祀られている。  御祭神    天照大神   応神天皇   菅原道真 【走水】の名の由来 元来神戸市中央区は、摂津国に属し、夙川から旧生田川 までの地域が菟原…

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塩屋ぶらり散策

宝塚から続いてきた六甲の山並みが、ここ塩屋の地で海に なだれ落ちる様にして終わっています。  つまりは六甲山の 西端にあたり、現在も塩屋川を挟んだ狭い谷筋の中、狭い道路を 挟んで多くの住宅が建っています。 山裾の高台から眺める、明石海峡や大阪湾の景色は素晴らしく、 明治・大正の頃から、この風景を好んだ西洋人の住まいが今も 残っているようなところです。 その塩屋・滝の茶屋といった山陽電車の駅周辺をブラブラして きました。 塩屋駅周辺  旧グッゲンハイム邸 山陽電車の塩屋駅の東、数分の線路際にあります、木造2階 建ての異人館(明治42年建築) 海岸、JR、国道二号線、山陽電車、山裾と続くところ、 小さな踏切を越えたところに庭園と洋館があります 中には入らずに、外から外観を見ると  旧後藤邸 グッゲンハイム邸横の細い路地の様な坂道のところに、赤い 三角屋根が特徴の洋館です。 大正中期に神戸の貿易商の邸宅として建てられた洋風住宅。 神戸北野と塩屋を舞台にした小説『花の降る午後』の映画の ロケに使われたということですが、見学は出来ません。 後藤家住宅遠望 山の中腹右手の赤い三角屋根の家が旧後藤邸、 真ん中辺りの青い屋根が大江家住宅 左下が旧グッゲンハイム邸です。 細い坂道を登っていきます 大江家住宅 付近の洋館 振り返り、海の方を見ると明石…

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下畑海神社

車で走っていますと、JR垂水駅近く、国道2号線沿いに 垂水海(わたつみ)神社が見えてきます。 境内が駐車場に なっているのが残念ですが、海沿いの狭い土地空間では、神社の 広い境内が車の駐車場に活用されるのも仕方がないのかも 知れません。 この海神社の元宮とも、分社とも言われているのが、下畑海神社 です。 下畑海神社は、塩屋谷川の上流、下畑地区の鯛取山近くの高台に 位置しています。 この日、下畑海神社に着くと、鳥居傍のアパートが、以前来た時と 比べて新しくなっておりました。 それと、数日前の豪雨の影響からか、神社に上がる階段が、通行 禁止のテープが張られています。 仕方なく、横の車道用?の坂道を上がり境内へ向かいました。 下畑海神社境内から拝殿を見る 境内には土俵がありますが、これは秋祭りで、子供神輿の練り歩き と共に、子供たちの神相撲がここで行われるということです。 御祭神   主祭神 底津綿津見神  【ソコツワタツミノカミ】     配祀神 中津綿津見神 上津綿津見神         大日孁売命                         【ナカツワタツミノカミ ウワツワタツミノカミ           オオヒルメノミコト】  創始は、 宝暦年間 (1751~1764)に垂水村鎮座の 日向神社の 御分霊 を迎え、下畑村の鎮守の神としてお祀りしたのが、創始と 伝えられ…

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神戸市垂水、下畑の久昌寺

毎日猛烈な暑さが続いています。 室内にいても風が無ければ じっとしておれないような、サウナ風呂の中にいるかの様な暑さ です!  TVニュースでは、熱中症の話題の中で、スーパー 熱帯夜と言う様な話題も出ていました。 夜でも27度以上の温度が続くと、スーパー熱帯夜というそうです。 今年は、今まで経験したことのない様な、特殊な夏の気温状態 という事ですので、皆さんも体調にはくれぐれもご注意下さい!! 先日、乙姫神社さんへ行きましたが、その時に気になりました 垂水区下畑の歴史史跡を見て来ました。 先ずは、垂水区役所へ行き、垂水区内の史跡・ハイキングの 地図を貰い、そのまま単車で下畑の久昌寺と下畑海神社を お参りして帰って来ました。 朝から強い日差しで、路面からの照り返しの熱さが気になり ましたが、歩きではなかったので、何とか回ることができました。 垂水区内の史跡巡り用の地図 (垂水区内を数か所に分けて紹介されています) 中々充実した案内がされていますので、これから活用させて 貰います。 地元に設置されてある、史跡の案内看板 (これも参考になります) で、下畑の古山陽道などを通って狭い道を単車で走っていると、 佐伯神社というところが有りました。 佐伯神社 (この変わった建物のすぐ裏手にお宮さんがあります) この神社は、この地で古くから住んでいる佐伯氏の氏神さまを お祀りされているようです…

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