駒ヶ林蛭子神社

神戸市長田区の駒ヶ林漁港にあります蛭子神社。 駒ヶ林で漁をされる人々の安全と、豊漁、そして魚の供養を 願って祀られています。 度々、前を通り過ぎていましたが、今日は境内の桜に引かれ 参拝させて頂きました。 〔御祭神〕        蛭子命        大己貴命        八重事代主命 境内には、享保十六年(1731年)奉納の石灯籠一基が 現存しております。 この地、駒ヶ林の歴史は古く、高麗の使節の来朝にあたり、 その上陸地となり、 「こま島」 と呼ばれていました。 「こまがばやし」の名の由来は、神功皇后が朝鮮に出兵したとき、 高麗からやってきた多くの帆船の帆柱が林のように見えたこと など、諸説あるようです。 奈良から平安時代にかけて遣唐使の出入りが大輪田泊に あった頃、その船繋所であったといわれています。 また平清盛が治承三(1179)年安芸の宮島に参詣するときに、 和田岬をまわって「小馬林」に着いたという記述も残されており、 さらに源平の戦いでも平家の軍船が沖に集まったといわれて います。 近くの駒ヶ林神社境内には、『平清盛上陸地』というところが ありました。 また、この地は東には 刈藻川 、西には、 妙法寺川 があり、 この両方の川の排出した土砂によって、 島状の地形 になっていました。 この地形が、天然の良港となり幾内の出入り口として、 …

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弘法大師 空海の御手判

先日、知人が、弘法大師「空海」さんの御手判というものを 渡してくれました。 以前、書写山円教寺でお大師さんの手形?と言うのを見た ことが有りますが、それとも違うものでした。 https://singon1koumyou.at.webry.info/201108/article_1.html さらに「御手判」がラミネートパックされてあり、それで体の 不調個所を撫でさすると良いということでした。 この 弘法大師「空海」御手判の由来 と書かれた説明書き を、一緒に頂きましたので、以下に書いておきます。   [ 弘法大師「空海」御手判の由来 ]  屏風浦海岸寺  御存知の通り、海岸寺はお大師様御誕生の産屋でした。 ・・・略・・・畿内におのぼりになられるにあたり、ふるさと白潟 に立ち寄られ、産屋跡を道場とし、病気で悩む方にはじめて 真言の秘宝をもって加持された。  そして、お立ちになるに あたって独特の方を伝授されました。 こうしたことで、弘法大師御出化初因縁霊蹟・日東初縁場・ 大日本真言根本霊蹟と名称され、また、病気を封ずることを 含めて、屏風浦と申されていることです。 そして、お大師様の身代わりとしてお残し下さったのが、この 御手判です。 お大師さま、お手ずからお加持して下さると信じて、なでさする よう、また、お守りとして身にお付け下さい。 御判は、実は「空海」と彫られているもので・・・・中略・・・・ …

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灌仏会

この四月の八日はお釈迦様の生まれた日  という事で 各地で、釈迦生誕を記念したお祝いがなされています。 須磨寺に桜を見にいきましたら、甘茶のお接待がありました。 お釈迦さまはヒマラヤ山脈の麓、現在のネパール王国の ルンビニーというところで生まれました。 父は釈迦族 の国王シュッドーダナ(パーリ語でスッドーダナ、 浄飯王じょうばんおう、「浄らかなご飯(白飯)をもつもの」の意味)、 母はマーヤー(摩耶夫人まやぶにん)であったと伝えられています。 ちなみにお釈迦さまという呼び名は、釈迦族という部族名に 由来します。 釈迦牟尼(「釈迦族の聖者」の意味)とも、釈尊(「釈迦族の 尊者」の意味)とも呼ばれますが、 その本名はサンスクリット語でガウタマ・シッダールタ (パーリ:ゴータマ・シッダッタ)といいます。 ガウタマとは「最上の牛」、シッダールタとは「目的(アルタ)を 達成した人(シッダ)」という意味です。 ガウタマ・シッダールタは、母マーヤーがお産のために実家に 戻る途中、ルンビニーの園で誕生されたといいます。 須磨寺 万神殿にあります ルンビニーの砂 しかしお釈迦様の母マーヤー夫人は、お釈迦さまを産んで 7日後に亡くなったと伝えられます。 代わってマーヤー夫人の妹であるマハープラジャーパティー パーリ:マハーパジャーパティー)がお釈迦さまの養母となりました。 誕生の年代については諸説あるとこ…

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太山寺の春 その二

太山寺の境内には、国宝本堂の他にも、三重塔、阿弥陀堂、 護摩堂、羅漢堂、釈迦堂、太子堂に鐘楼。  そして奥の院には稲荷舎、地蔵堂などが残っています。 その中でも、本堂と三重塔は太山寺の象徴の様な存在感を 持って参拝の善男善女を優しく迎えてくれています。 三重塔 心柱宝珠柱の銘と棟札から、貞享五年(1688)の建立と されています。 屋根は本瓦葺きで九輪の上の水煙は火焔型。 各層の四隅の尾垂木の間には邪鬼を置く。 その邪鬼の色は各層で異なり、下から白・緑・褐色となって います。 初層内部の須弥壇には大日如来坐像、及び四天王立像を 安置。 大日如来 邪鬼 阿弥陀堂 貞享五年に再建されたもの。 本来は天台宗の常行三昧 の修行堂。   しかし阿弥陀信仰が高まるにつれ人々の 礼拝の対象となって行きました。 丈六の阿弥陀如来坐像は鎌倉初期のものです。 阿弥陀如来坐像 護摩堂 建立は江戸の中期ごろ 方三間の建物で、堂内には大黒天・不動明王・毘沙門天を 安置 鐘楼 鐘には 『南無薬師瑠璃光如来』 と陽刻されています 羅漢堂 太子堂 奥の院 閼伽井橋を渡って奥の院へ 太山寺川 稲荷舎 地蔵堂 息游軒遺跡 - 熊沢蕃山の閉居跡 (阿弥陀堂の手前…

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太山寺の春 その一

神戸市の西区伊川谷の太山寺は天台宗の古刹であり、 神戸で唯一の国宝と言われる、鎌倉時代の堂々とした 本堂が素晴らしいお寺です。 今迄にも何度か記事にしていますが、春の太山寺の 風景を書いて見たいと思っています。 また、たまたまこの日は、結婚式の前撮りの為という 数組のカップルが、花嫁衣裳で境内のあちこちで楽し そうに写真撮影されていました。 桜の咲く陽気のなか、カメラマンの指示に従ってポーズを とる、文金衣装の花嫁姿。 そして澄んだ青空のもと、境内の本堂や三重塔などで写真 をとる姿を眺めていると、平和な喜びが感じられ、しばらく 見とれていました。  【寺 歴】 ・・・この太山寺は「播州太山寺縁起」には、藤原鎌足の子、 定恵和尚が開山。 霊亀2年(716)、鎌足公の孫である宇合(不比等の子)の 建立と伝える。 宇合が明石浦摩耶谷の温泉で療養中、夢の中に薬師如来 が出現。 薬師如来は、ここより東北の地に定恵和尚結縁の地が あり、定恵和尚は願望果たせず寂したことを伝えた。 宇合はその教示に従い、七堂伽藍を整備し、薬師如来の 尊像を安置。 元正天皇(715~723在位)の勅願寺として、広く信仰を 集めた。 建武中興(1334)の時には、北条勢を討つために、大塔宮 護良親王の令旨を受け、太山寺衆徒の目覚ましい活躍が あり、寺運は、大いに栄え、南北朝時代には、支院四十一 ヶ坊、末寺八ヶ寺、末社六ヶ社と…

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国宝本堂 朝光寺

(今から6年程以前に参拝した折の記事の一部変更しての 再掲になります) 寿永3年2月5日(1184年3月18日)源義経軍と平資盛軍 による戦いが行われた三草山の戦いの地の近くに、国宝の 本堂を残している朝光寺というお寺があります。 朝光寺は山号を鹿野山と 称し、現在の宗派は高野山真言宗 です。 本尊は2躯の十一面千手千眼観世音菩薩立像です。 法道仙人が651年に開基したという伝承があり、 本堂は国宝に指定されています。 播磨・摂津などの古寺では法道仙人開基というお寺が大変多い ように思いますが、播磨だけでも60ヶ寺、丹波や摂津を含めると 100ヶ寺を越えるということです。 伝説では その法道仙人が日本で最初に開いた寺院である一乗寺に居を 構えていた折、東の山に光が昇るのを毎朝見た その山を訪れた法道は、住吉明神の化身と出会い、そこに 寺院を開いたのが朝光寺の始まりであるという。 はじまりの地は、三草山の峯の一つである権現山に開かれて いたところから戦火などの被害もあり、現地に移転されたと いうことです。 この朝光寺は国宝の本堂ですが、普段は訪れる人も少なく、 静かな境内では多くの観音石仏(おそらく西国三十三観音霊場) が出迎えてくれます。 国宝の本堂は室町期のものだそうですが、薄暗い内部に入り 一人で、今から600年以上以前の僧侶達の思いや、生活について 気持ちを向けていると、現…

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怒りのコントロール

人間が生き、多くの他人の中で生活をしていると、自分の 思う様にならないことにイライラしたり、暴力を振るったりする人 が最近特に増えている様に思います。 そう言う私自身も年齢が行くと共に、日常のチョットした事で イライラを感じることが増えてきているように思い、その怒りや イライラをコントロールする必要を強く感じています。 世間で見聞きする事では、【あおり運転】や【DV】、【幼児虐待】 【隣人トラブル】等々、一時的な怒りに我を忘れたような行動の 結果、自分は勿論、他人さんにも長い時間に渡って不自由な 生活をしなければならなくなるということが想像が出来ないもの かというようなことが増えているように思います。 この、一番の元凶が、『一時的な怒り!』が出た時に、その 怒りのコントロールをする方法を知らないことが一番問題なの ではないでしょうか? この 怒りのコントロール については 学校の先生が、怒りに任せて生徒を殴るという事が無く ならないことからも、当然学校では教えていません。 勿論家庭でも同様でしょう。 それで、最近よく言われるようになりました    アンガーコントロール について書いて見ます 怒りのコントロールについては、昔からことわざなどでも    短気は 損気    ならぬ堪忍 するが堪忍    怒りが 身を亡ぼす (怒りは 身の破滅)    怒気起こらば 手を引け    …

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奇跡の祈り

日本人の祈りと言えば、神社仏閣での【○○祈願】の 様に、病気平癒・所願成就・家内安全等々の願いを祈祷 してもらったり、絵馬に願いを書くことなどが多いですね! つまりは、生身の人間にない超越した力を持つと思う、 目に見えない存在に願いを託すことで安心するということ でしょうか? そこには具体的な”祈りの言葉”という事では、お寺での 願文や、神社での祝詞などが思い浮かぶのですが、その 願文や祝詞は僧侶や神主が、個人に変わって願文・祝詞 を唱えて願いを取り次ぐという形式です。 ですから、個人の祈願文や祈願祝詞を常々唱えていると いう事は無いと思います。 あるとすれば、般若心経を書いたり唱えた後に願文を 入れるという方式でしょうか?! 勿論キリスト教などでも、【○○の祈り】という様な多くの 祈り文が、神と人を繋ぐ大きな役割を果たしているようです。 そのような【祈り】の中でも、あまり重要視されていない、 あまり知られていないのに、【奇跡の祈り】と言われている 祈りがあります。 ・・・・それは・・・・   地境を拡げ  壁を突破する     ・・・と言われる ・・・・ヤベツの祈り・・・・です 旧約聖書の中に出て来るのですが、あまり 気付かれずに”隠されてきた宝”とも言われる祈祷文です。 それは /////////////////////////////////////////////// 『…

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脚が痛ければ手首で歩く!

既に亡くなられていますが、比叡山でも過酷な修行と 言われている千日回峰行を二度も萬行された、酒井雄哉 大阿闍梨の話です! 千日回峰行では、九日間の断食・断水・断眠・断臥の 四無行が最も過酷で、人間の肉体の限界を超えるような 修行があります。 七年間にわたって、早朝から比叡山の峰々を歩くので すから、足腰の痛みなども相当なもののようです。 勿論、行を途中で止めることは死ぬことなので、泣き言 など言わずに乗り越えていかれます! 酒井師の「一日一生」という本の中で、脚が痛くて、もう 一歩も歩けないとなった時、酒井師はどうするのかに ついて語っています。 それは・・・ 『脚が痛くなったら、首で歩くと考える』 自分は今、首で歩いていると、そう自分に言い聞かせる と、脚の痛みがフッと消えて、今度は首が痛くなる。 という。 「首で歩く」とイメージして歩いていると、今度は首が 脚に変わってたまらなく痛くなってくるそうです。 次は、この首の痛みをどうするかと考え、そこで酒井師は 『手首で歩く、手首で歩く』 とイメージすると、首の痛みが消え、手首が痛くなる。 するとまた、『脚で歩く』とやって、他の箇所へ痛みを グルグル回していると千日間歩ける・・・という話です。 この話から思いますのは、人間の脳の仕組みの様な ものです。 それは、人間は一度に何か所も痛みを感じることが出来ない ようで…

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敦盛塚

須磨で敦盛塚と言われる五輪塔は二か所に在ります。 一つは、敦盛の首塚と言われる五輪塔が須磨寺にあります。 もう一か所は、旧西国街道沿いの鉢伏山山麓には、敦盛の 胴塚と言われる大きな五輪塔があり、今も香煙が絶える 事はありません。 須磨寺の敦盛塚(首塚と言われる) 謡曲「敦盛」と敦盛塚 鉢伏山山麓、西国街道に面した敦盛塚(胴塚と言われる) 敦盛塚 石造五輪塔の説明文 この五輪塔は、敦盛の胴塚といわれていますが、鎌倉時代の 執権北条貞時が、弘安年間に平家一門の霊魂を慰め供養の 為に建立し、「あつめ塚」といわれていたものが「あつもり塚」と 呼ばれるようになったという説もあります。 また、大正時代には、子供の病気の神様として信仰され、 お礼参りには敦盛愛用の「青葉の笛」になぞらえて、穴をあけた 竹に白紙を巻き、水引きをかけたものを奉納すると言う様な 風習があったそうです。 草野 藤次句碑  須磨のうら 波の音あはれ 吹きたへし             青葉の笛の 昔おもへば こちらの敦盛塚では、敦盛の命日(旧暦2月7日にあたる3月13日)に 合わせて、今年は3月2日(土曜日)に敦盛祭が行われました。 須磨寺僧侶の読経や行平ゆかりの一弦琴の演奏や御詠歌、 篠笛演奏や長田高校合唱部のコーラスなどで敦盛の魂を 慰める祭りです。 須磨寺管長はじめ役僧の読経回向 …

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村上帝社 琵琶塚

関守稲荷神社より、現在の国道二号線沿いに謡曲の 「絃上」(玄象)で知られた村上帝社という小さな社が あります。 その話とは、平安時代末期、琵琶の名人であった 藤原師長は唐に渡って琵琶の奥義を極めたいと思い、 都を出て、須磨まで来た。 その夜、村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義 を伝えたので、師長は入唐を思いとどまり、 名器「獅子丸」を埋めて都に帰った。 この伝承を題材として能の「絃上」(玄象)が作られた。 この伝承に基づき、土地の人が村上天皇を祀ったのが 当社であると伝えられています。 二号線に面して立つ鳥居 今は空き地になっていますが 阪神大震災まではお店がありました 境内の後ろを山陽電鉄の電車が通っています 村上帝社の伝説 この社にはつぎのような伝説があります。その伝説のひとつ が謡曲「絃上」(玄象)でうたい語られ、広く世に知られて おります。 『平安期の末期、太政大臣藤原師長は琵琶の名人であったが、 さらに奥義をきわめたいと入唐の志をもってこの須磨の地まで きました。  ところが村上天皇と梨壷女御の神霊が現れて、琵琶の妙手 を授けたので入唐を思いとどまり帰郷した。』 といわれており、一説に『籠宮から師長に捧げた琵琶の名器 〈獅子丸〉を埋めた場所である。』とも伝えられています。 いずれにしても、村上天皇にまつわる伝説からこの地に 村上天皇を祭り、神社とした…

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関守稲荷神社(須磨の関旧跡)

今迄にも何度か記事にしていますが、今回の西国街道歩きの 繋がりで紹介させて頂きます。 現在の須磨付近の様子からは想像もつかない辺鄙な時代、 ここから海岸沿いを塩屋・明石方面に歩いて旅することが 出来ない時代があったようです。 現在のJR・国道2号線・山陽電鉄が通る鉢伏山麓付近は ”赤石の櫛淵”と言われた荒磯で、平安時代まで、都から 来た山陽道は須磨までくると鉢伏山南麓の荒磯をさけて 山間を迂回し、 西進していました。 その道筋は須磨から多井畑を経て塩屋に出、海辺を西に 進み玉津町や岩岡の南方を通っていました。 須磨の関は、大宝令に定められている摂津の関のことで、 海陸を兼ねた関であったといわれています。 天下の三関、(「伊勢の鈴鹿の関」「美濃の不破の関」 「越前の愛発(あらち)の関」)についで重要な関でした。 関守稲荷神社は、この関の守護神として、まつられたと伝え られ、「源氏物語」で光源氏が須磨に退居していた時、 巳(み)の日祓(ひはらい)をしたところをここになぞらえ 「巳の日稲荷」ともいわれています。 (須磨の関跡の地としては、現光寺の地、多井畑などと 諸説があります。) 明治時代初めに千守(森)川と西国街道の交差する 土中から掘り出された石碑(長田宮)の側面に  川東左右関屋跡 と刻まれています 境内の歌碑 源 兼昌  あはじしま かよふちどりの なくこゑに …

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須磨の源氏寺

今は暗渠になり道路ができ、その上を車が走る千守川 が流れていた傍に、源氏寺と呼びならわされている、 現光寺という浄土真宗のお寺が有ります。 この辺りは源氏物語の主人公、光源氏の館跡とされ、 通称の源氏寺の方がよく知られているようです。 ここは、『源氏物語』のモデルの一人といわれ、 969(安和2)年に起きた「安和の変」で失脚した左大臣 源高明卿ゆかりの土地だそうです。 『源氏物語』で(須磨の巻) おはすべき所は行平中納言(ゆきひらちゅうなごん)の 藻潮(もしほ)たれつつわびける家居(いえい)近き わたりなりけり  海面(うみづら)はやや入りて             あはれにすごげなる山なかなり (海岸から少し入り込んでいて、身にしみるほど寂しい山中 である) と描写されたこの地に寺院が建てられたのは永正11年 (1514年)のこと。 浄教上人が開いたといわれ、御本尊には阿弥陀如来が祀られ ています。 藩架(ませがき)山 現光寺 この付近は古代の須磨関があったといわれる場所で、それを 連想させる地名も残っていますが、それを裏付けるように (明治元)年に境内の裏手から「川東左右関所跡」と刻まれた 標石が掘り出されています(この標石は、西にある関守稲荷 神社に安置されています)。 『源氏物語』の話を偲んで現光寺には多くの俳人が 須磨の地へ足を運び名句を残しています。 「芭…

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弓場八幡神社

月見山駅から南東方向の住宅地の中に鎮座 御祭神  誉田別尊(応神天皇) 合祀      五十猛尊 (権現社)          菅原道真公(天満宮) 境内社  弓瀧稲荷神社(倉稲魂命) 由緒   一説に永延年間(987~989)第66代一條天皇の御代 に創建されたと伝えられるが、その年月日は不詳である。  誉田別尊を主祭神として奉斎し、明治中期頃より権現社・ 天満宮を境内末社として奉斎したが、昭和29年(1954)の 本殿建替えを機に、その御祭神五十猛尊・菅原道真公を 合祀し、東須磨村一円の氏神としての崇敬はもとより、 近郷の信仰をも集め、厄除開運の神社として広く崇敬され ている。  『武庫郡誌』によると、境内に33間の射場を有し、明治に なるまでは陰暦の2月1日に「御弓の当」という儀式が 行われたと記されている。  かつて、東須磨村は徳川幕府の直轄地であったが、 明治になってこの儀式が突然途絶えたことは、武士社会 からの世相変化によると思われるが、現在その資料も 散失しているのは残念なことである。  通称弓場八幡と呼ばれているのは、勿論「御弓の当」 に由来している。  先の阪神淡路大震災で社務所が全壊したにも関わらず、 収納されていた「みこし」は奇跡的に被害を免れた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 境内の…

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西須磨の昔話

月見山付近を歩いていた時、稲葉公園という公園で休憩 していると、小さな”絵かんばん”の様なモノが目にとまり ました。 近づいてよく見ると、この付近の須磨の説話を紹介した ものでしたが、知らない話もあり、興味深く読ませて もらいました。 【まつかぜ むらさめ伝説】  今から千年以上も昔のこと  都から身分の高い「在原行平」が須磨に流されて  きはった  ある日、多井畑の村長の娘「もしお」「こふじ」は須磨の  浜に汐くみにやって来て、行平と出会い親しくなったんや。  行平は「もしお」を松風、「こふじ」を村雨とよんで、離宮道  あたりにあった行平の家にいっしょに住み、今の離宮公園  の山で月見をしたりして三人は楽しい時をすごしたんや。  そやけど、三年がたって行平が都へ帰ってしまうことに  なって、歌を残して行ってしもた  『たちわかれ  いなばのやまの みねにおうる              まつとしきかば  いまかえりこむ』  「まっていると聞いたら、すぐに帰ってくるよ」という気持ちを  よんだんやけど、それからもう二度と行平は帰ってこんかった  「松風」と「村雨」は尼さんになって、お堂を立て、行平を  しのんだということや  今でも松風村雨堂には、行平が残した「衣」と「冠」を  かけたといわれる松の切株があるんや。 【すわ神社のきつね】  須磨の天神さんの西の諏訪神社は、昔、大き…

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綱敷天満宮

山陽須磨寺駅から海に向かって少し歩くと、諏訪神社と 綱敷天満宮が鎮座しています。 この辺りの江戸時代の「摂州須磨浦一ノ谷真景細見」と いう版画を見ると、西国街道に沿って民家が並び、その 後ろは直ぐに田圃が拡がる中に細い道が綱敷天神の 松林に続いています。 そして、鳥居の前には、砂浜が描かれ、松並木が砂浜 に沿って続いていたようです。 現在は松林も無く、天神と言えば梅と言うぐらい、梅の木 が境内に植えられていますが、昔は違ったのでしょうか? そして、、境内の前から海岸の間には国道2号線とJRが 走り、その先に砂浜が作られています。 当時の様子は、以前に「須磨の良寛さん」でも書いて います https://singon1koumyou.at.webry.info/201702/article_2.html 諏訪神社 「須磨」という地名は、摂津国の西端に位置する「隅(すみ)」 の土地だということから「スミ」が訛って「スマ」となったという 話や、また、この諏訪神社の「スワ」が訛ったものだという話が あるようです。 東向きに建てられた社殿にちなんで「東向明神」とも呼ばれ ていた諏訪神社は、西須磨地域で古くから勢力を伸ばして いた名家である前田家・頼広家・友好家・貴答家・岡本家の 5家によって奉祀され、守られてきました。 また、長田神社が「漁」の守護神とされているのに対して 諏訪神社は「狩」の守護神として人々の厚い崇敬を集め…

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西須磨付近

西国街道の古い絵図では、現在の月見山付近を過ぎ 西に歩いて行くと小さな池や小川が見られます。 この小川を越えると西須摩村となり、藁屋根の家が街道に 沿う様に沢山ならんでいます。 現在では離宮道となっている小川の傍には、周りを田んぼに 囲まれた塚の様な所には村雨堂の松が描かれています。 松風村雨堂 松風村雨姉妹は多井畑の村おさの娘たちで、本来の名は 「もしほ」と「こふじ」と言った。 須磨に汐汲みに出たところ、天皇の勘気を蒙り須磨に流され ていた在原行平と出会い、「松風」「村雨」と名づけられて 愛された。 のちに行平は赦されて都に帰る際、松の木に形見の烏帽子 と狩衣を掛けて残した。 (衣掛けの松) また『古今和歌集』にある   立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる               まつとし聞かば いま帰り来む の歌も、この離別の際に詠んだものとされる。 松風・村雨姉妹は尼となって行平の旧居に庵を結び、 彼を偲んだという、その廬跡と伝えている。 衣掛松跡と松風村雨堂 現在の町名等に、伝説の面影を今に残している。 曰く、稲葉町・衣掛町・行平町・村雨町・松風町などの 町名や、月見の松、衣掛の松、などの跡もあるようです。 この先、少し西に進むと、山陽電鉄の須磨寺駅になるの ですが、その手前で名所図会には、前田氏の家、菅の井 とかに、事代主と書かれた森の様なも…

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月見山界隈

大手の権現さんと言われる證誠神社を過ぎ、西国街道 に戻り少し進むと現在の須磨警察署の前で妙法寺川 を渡ります。  さらに西に進み天井川を渡れば東須磨 に入ります。 聖霊権現 現在の天井川 上に高速道路 現在の街道 天井川の交差点付近 昔の絵図では高い堤と松並木があり、旅人は堤を越え、 川を渡っていた。 大正時代にはトンネルが出来ていたそうですが、 今は何の面影もありません。 江戸時代の文化元年(1804)にここを旅した蜀山人は『天井川と いふところを渡れば水なくして砂石のみなり、人家ありこれ 東須磨なり・・・ここに名物根元松風味噌仕込所・・・立よりて 見るに、曲物に麦糀のあまき味噌をいれたり、また、村雨漬と いへるは同じ味噌に茄子大根などつけたるなり、また、 須磨浦古跡記といふものをひさぐ・・・』と記している。 この東須磨村は、当時ではこの付近一帯では一番大きい村 だったようで、板宿村の二倍、白川村の四倍の石高があった そうです。 また付近には浄徳寺と妙興寺というお寺があります。 月見山浄徳寺(真言宗高野山派) 旧西国街道に面するところに寺を示す石柱が有ります 平安末期から続く浄徳寺の創建当時の諸仏諸菩薩は 本尊である十一面千手観世音菩薩を除き戦火に包まれ 灰となったが、平成五年までに伽藍、仏像などが復興した。 しかし平成七年の阪神大震災で堂宇が倒壊の憂き目に。 不…

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大手の聖霊大権現

旧西国街道を長田から西に歩いて行くと板宿を過ぎ大手村 に入ります。 板宿の地名伝説は幾つかあるようですが、一般的には、道真が 大宰府に左遷されていく途中にこの地に立ち寄った。 急な事でもあり、里人が、板囲いの宿をしつらえ 菅原道真を休ませたということから板宿といわれた。 また、飛松の伝説も残り、今も飛松町という地名があります。 その伝説とは、道真は都では樹木を愛し、邸宅には桜や梅、 松の木を植え育てていた。 道真が失脚した時、桜はショックで枯れ、梅の木は花の香を 東風に乗せ、西に旅する一行の元に届けたという。 しかし、松の木だけは知らぬ顔。 板宿に着いた道真がふとため息交じりに呟いた・・・・松とは 何とも情知らずの木だろう・・・このつぶやきを伝え聞いた 松は驚き恥じ、一心に空を飛び、京からこの地に飛来した! その松の古株が板宿に残っており、菅公の飛松と言われて いるそうです。 この板宿の近く、妙法寺川のほとりに、須磨の聖霊大権現と 言われる證誠神社が鎮座しています。 證誠神社(今年のお正月) この證誠神社は「大手の権現さん」とも呼ばれ、987年 (永延元年)に紀州熊野の権現さんを勧請して妙法寺川沿岸 の大手・東須磨・野田・駒ケ林の五ケ村の氏神として 創祀された。 1182年(寿永元年)に須磨の地にご遷都されるにあたり、 大手の守護神として平家一門の崇敬篤く、…

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長田西部の西国街道散見

江戸時代に書かれた『摂津名所図会』などの絵図を見たり、 名所案内などを見て、現在の姿と比べています。 もちろん、当たり前ですが、全くと言っていいほど風景は 変化していますが、お寺や神社の他、歴史的な遺物・史跡 等からイメージを広げ楽しんでいます! 先日は、長田の蓮池付近から須磨寺付近までの西国街道を 歩きましたので、付近の名所・旧跡を案内させて頂きます! 高速神戸の長田駅付近 新湊川の川縁に源平合戦勇士の碑と、対岸には 御船山旧跡があります 平 知章の碑 (源平合戦勇士の碑) 源平勇士の碑 寿永3年(1184)一の谷の合戦で討ち死にした平通盛、 源氏方の木村源吾と猪俣小平六則綱らの碑があります。 後に、明泉寺にお墓がある平知章の碑が西国街道のここに 移り、敵味方なく源平勇士の碑としてあわせ弔ったといわれて います。 御船山の旧跡 明治時代の湊川改修のためかつての位置とは異なる。 かつては30坪ほどの丘があり御船山もしくは御船の森と 呼ばれた、 長田神社付属の土地である。 伝説によれば、長田大神鎮座の際、神功皇后が御船具 を埋めた場所とされており、黄金の船が埋まっていると いわれている。 蓮池跡 旧西国街道を西に進むと、蓮池跡があります。 行基が灌漑用水に造った大きな池があったのですが 埋め立てられ,現在はグランドや体育館、小学校に なっています 行基が築いた溜池・・…

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東志里池(尻池)の射場八幡神社

宝満寺の少し北側に離れたところに、射場八幡宮という 小さなお宮さんがありました。 この辺りでは、町名に書かれている尻池の字面を嫌ってか? 志里池という字を使っています。 確かに、尻よりか志里の方が詩的で、優しくて良いですね! 由 緒  当社は、通称射場八幡神社と称せられ、大同2年(807)に 宇佐八幡宮を勧請し鎮座した。 射場とは、神功皇后が朝鮮半島に出征の時、弓始めの式 をした処に由来している。  社殿は嘉永3年(1850)に建立され、明治40年(1907)6月には 社殿、社務所、練塀、鳥居等石造物を末正家発起人となり、 近隣崇敬者等で改築・建立された。 大東亜戦争の戦災には免れたが、平成7年(1995)の阪神 淡路大震災には多大な被害を被むる等、これまでにも 幾度となく改修された。  崇敬者は約120戸、東尻池村の旧家を始めとする住民で ある。 戦時中には、崇敬者の疎開や罹災者も多く、人々が減少 したが、復興とともに復帰し、八幡神社を中心とする各社の 各地区の方々の参拝がある。 戦前の夏祭には屋台を組み、にわか等が地元の人々に よって催されていたという。  境内地は旧来、未正家の所有地であったが、明治35年( 1960)11月に国有地に編入、昭和28年(1953)7月に宗教法人 として設立。 厄除、家内安全等の崇敬篤く、東尻池地区では最大の社殿 を有する神社である。 ・・・・ …

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東尻池の宝満寺

神戸市長田区東尻池に在ります禅寺、宝満寺にも 『矢拾い地蔵』によく似た足利尊氏とゆかりのある伝説 があるそうです。 足利尊氏との伝説 それは、打出合戦に敗れた足利尊氏が敗走中にここを訪れ、 再起を願い、武運を守るようにと祈願したと伝えられます。 その後、尊氏は兵庫から九州へ敗走しますが、筑紫(福岡県) の多々良浜で菊池武敏軍と戦った多々良浜の戦いのとき、 突然、突風が吹き、その中から一人の少年が尊氏の前に 現われ、矢竹をほしいと頼んだといいます。 尊氏は、その少年に一本の矢竹を与えました。 その後、勢力を立て直した尊氏は、再び兵庫へ攻め上って きますが、その際、再びここ宝満寺を訪れ、矢竹のことを僧に 話したところ、その僧はたいそう驚き、寺の本尊の下で 見つけたという矢竹を尊氏に見せたそうです。 その矢竹は、まぎれもなく尊氏が少年に与えたものだった とか。 尊氏はこの寺の本尊が自分を守っていてくれたのだと悟り、 戦勝後、尊氏はこの本尊を深く信仰したと伝えられます。 尊氏は湊川の戦いの際、ここ宝満寺に本陣を布き、また、 戦勝後も宝満寺を崇敬し、伽藍の修復や寺領の寄進をした という事です。 また、治承4年(1180年)に平清盛が福原遷都の際、福原京 の西入り口にあたる現在地に移築させたと言われています。 その時に、自筆の「護国殿額」と清盛自身の懐中仏 「金胴帝釈天立像」とともに大修理を行…

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矢拾い地蔵伝説の慶雲寺

翁舞い神事の残る大歳神社の近くに、足利尊氏が信仰した 【矢拾い地蔵】と言う地蔵尊伝説の残る慶雲寺と言う禅宗の お寺があります。 慶雲寺 この慶雲寺の創建伝説に、足利尊氏と矢拾い地蔵の伝説が 伝えられています。 その伝承によると、 1336年6月の湊川の戦のとき、はじめ足利尊氏軍は劣勢で、 彼をめがけて雨の様に矢が放たれ、危うい尊氏の前に、 見知らぬ一人の僧侶が現われたと思うと、その僧が尊氏 めがけて飛んでくる幾本もの矢を空中でひょいひょいとつまんで は投げ捨ててくれたといいます。 そのおかげで、味方をまったく傷つかずにすみ、尊氏軍の勝利 に終わったという話です。 尊氏は戦勝後、その僧を日ごろ信仰してきた兵庫にある魚御堂 の地蔵の化身と考え、矢拾い地蔵としてここ車の地に移し、 その仏像を祀る寺として善福寺を創建しました。 魚御堂は、平清盛が魚を供養するために建てた寺です。 その後、善福寺は明治20年(1887年)に慶雲庵と合併して、 慶雲寺となりました。 この『矢拾い地蔵』は昭和28年の火災で焼失したという ことです。 (また、この話とよく似た伝説が、長田の東尻池の宝満寺の 本尊にもあるという事です) 慶雲寺本堂 毘沙門堂 毘沙門堂縁起という事ですが、読めないので、後日調べますと 次のようなことが書かれているそうです 妙見大菩薩 御所童子(右側)秘仏…

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車の大歳神社

神戸市須磨区の板宿から妙法寺を経て白川に向かう 街道(現代の県道22号)の、妙法寺の車(くるま)と言う 古い地区に鎮座していますが、単車でも狭い坂道を 地図を見ながら探しました。 因みに、現在の車(くるま)という旧村名の名前の由来 として、栗の多い土地(クリ・マ)とか、山間の土地 (クラ・マ)などが由来ではないかと言われています… このお宮は、車の翁舞いという、古式の舞が現在にも 伝承されている事で有名ですが、普段は誰もいない 村の鎮守さんと言う風情の処でした。 神社境内は高台になったところに在りますが、社殿の横が 昨年の大雨の影響からか?、崩落していました。 本殿 【ご祭神】      大歳御祖神 【由来】 由緒は不詳ですが、孝徳天皇の大化2年(646)の 創建と社伝(『武庫郡誌』)にも記載されており、また 応永4年(1397)6月19日摂津国八部郡丹生郷より 遷座されたとも伝えられています。 古くは今よりも南にあり、三木街道沿いの今もある字大道 (おおどう)はもと大堂と書き、壮大な社殿を営んでいたと いわれていますが、現代の社殿は、元禄5年に改築された ものです。 【ご神徳】 大歳御祖神は、素盞嗚尊の御子神で、宇迦之御魂神 (稲荷神)等と同じ五穀豊穣守護の神です。 【特殊なおそなえもの】 まず高野豆腐1枚の上に人参・大根を高野の幅に短冊状 に切ったものを…

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多井畑の猿田彦神社

多井畑厄神さんの裏手側の山蔭の様な、道路から数メートル 下がったところに、何時のころから祀られているのか、猿田彦 神社といわれるところが在ります。 地元の人からは山神(さんじ)さんと呼ばれているそうです。 多井畑厄神さんの裏手側?の参道入り口 厄神さんの裏手、道路を隔てたところに猿田彦神社が あります 鳥居をくぐって振り返ると厄神塚の丘が見えます  祭神は猿田彦大神(天狗さん、道開きの神様)、古くから村内  で山神講(さんじこう)としてお祀りして、毎年10月17日に例祭  を行っている。  厄神さんの北向かいに鎮座しています。 このお社では、大きなウバメガシの木が枝を広げています! 神戸市内では最大という事ですが、かなりの古木です。 根回り4.5メートル、枝の広がりが20メートルを越すそうで 樹皮にはヒトツバや地衣類が着生しています。 このウバメガシの木は、数メートルの塚の様なところに 根を張り、この木を祀る様に、小さなお社が作られています。 元来は、このウバメガシの木が神木としてあがめ祀られていた 依り代ではないかと思いますが、どうでしょうか? ただ、私自身の考えですが、ここから北へ数キロ離れた 白川の地に山伏山神社という、猿田彦さんを祀る神社があり、 鷲尾家の氏神さんと言われています。 この鷲尾家は、源平合戦の折に、源義経の道案内をした旧家 ですが、この鷲尾家の分家?が多井畑にあり、…

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最古の疫神祭霊地

神戸市須磨区多井畑の小高い丘の上に鎮座されています、 多井畑厄神八幡宮は今迄も何度か書いていますが、また あらためて紹介させて頂きます。 この辺りは、須磨の海岸線から見ると、山(鉢伏山)一つ 越えた裏手になります。 古代においては、須磨の海は入江が通行の妨げになって おり、海岸沿いは通行困難になっていました。 それで塩屋や明石に抜けるには高倉峠を越えて多井畑へ 抜ける道が利用されていました。(古山陽道) 今の様に須磨の海岸線が利用できるようになったのは 平安時代の末期ごろからだそうです。  それでも海が荒れ ると通行が出来なくなることもあったそうです。 そして、須磨から鉢伏山、旗振山をへて多井畑厄神に続く 処は、摂津国と播磨国の国境と定められていました。 この国境の高地に厄除けの神様を祀り、畿内に災いが 入らない様に疫神(やくじん)祓い祭りを行ったという! この多井畑厄神八幡宮の由来として、神社の話では 【神護景雲四年八月甲寅の日、京の四隅と畿内国境の 十か所の地を選び、疫神(やくじん)祓祭りを行わせ給ひしに はじまりし。 其の遺跡は当社の後方高地に約一反歩の地域有りて 四囲めぐらすに築土の如き物を以てせる形跡あり、厄除の 霊地として世人の崇敬篤く、後に八幡宮を勧請。 中古以来、一月十九日の疫神祭日には、徹夜参拝者夥しく、 ・・・云々 実にわが国最古の疫神祭りの霊地にして、神徳…

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御崎八幡神社と厄除け

薬仙寺と道路を挟んだ向かい側に、御崎の厄神さんと 言われる、御崎八幡神社があります。 創建年代は不詳ですが、貞観年間(859~876年)に豊前国の 宇佐神宮(大分県宇佐市)から山城国男山山頂の石清水八幡宮 (京都府八幡市)へ大神を勧請し鎮座したのと同時代の創建で あると伝えられています。    寛文8年(1668年)に石清水八幡宮公文所より当神社に下附された 金幣に、石清水八幡宮と御崎厄除八幡宮は同時代の創建であると 記されている。 神功皇后が新羅遠征の帰途、この地に滞在。 その時に村人が神功皇后の神馬に兵庫の津で採れる海草を 秣(まぐさ)として献上した。 貞観(859~876)年中に、「神功皇后が、西征帰京の際に、 この地をしばらく皇居とした。」とのお告げがあり、 当地に神社を建立したのが始まりとされる・・という話も あるそうです。 ともあれ、当神社は石清水八幡宮と古くから関係があり、 公文所御鍵預かり役に任じられ、毎年春秋の大祭には 男山へ鍵を持って行き奉仕し、御崎の神馬秣を奉っていたと 神社古文書に記されているそうです。 昭和20年の神戸大空襲により社殿焼失、昭和31年に現状に 復興。 拝殿と稲荷社 御祭神    ・応神天皇    ・神功皇后    ・姫大神 (宗像の三女神?) 手水鉢と阪神大震災で折れた鳥居     とこ…

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薬仙寺と萱の御所

兵庫区の真光寺、清盛塚から兵庫運河を越えたところに あります、御崎八幡神社、薬仙寺、和田岬神社、三石神社 と、回って来ました。 真光寺、清盛塚、和田岬神社、三石神社は以前に記事に していますので、今回は御崎八幡神社と薬仙寺について 書いてみます。 新川運河の先にお寺(今出在家町方面から見た所)後ろ姿 【医王山薬仙寺の寺歴】 薬仙寺の創建は天平18年(746)、行基菩薩によって 開かれたのが始まりと伝えられています。 行基が日本で最初の施餓鬼会供養を行ったとも伝えられ ています。 ☆ 「施餓鬼」は「餓鬼に施す」という意味で、施餓鬼会は 六道輪廻の餓鬼道に堕ちた衆生のために食物を施し、その 霊を供養する法会です。 境内には「大施餓鬼会日本最初之道場」と陰刻された 巨大な碑が立っています。 平安時代には千憎寺塔頭の1つとして、千人の僧を招いての 千僧供養が行われていたとされ、政争で敗れた第65代花山 天皇も当寺に滞留した際   有馬富士ふもとの霧は海に似て                 波かと聞けば小野の松風  の歌を残したと伝えられています。 当初は天台宗の寺院でしたが承元元年(1207)法然上人 が当寺を訪れた際、浄土宗に改宗 さらに延文年中(1356~60)に霊山国阿が再興した際、 時宗に改宗、現在に至っています。 境内には、平清盛が後白河法皇を幽閉した…

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佐比江の猿田彦神社

今は全く面影は見られませんが、現在の兵庫区佐比江町や 須佐野というところには大きな入江がありました。 その佐比の入江付近は江戸の寛政頃には花街として大いに 栄えていたそうです。 しかし、明治の28~9年ごろに埋め立てられ市街地が作られ 現在に至っていまが、現在の町名で、入江・佐比江・須佐野 などの名が残っています。 この現在の佐比江の街角に小さな神社がありますが、それが 猿田彦神社です。 猿田彦大神は魁の神として常に神々の先頭に立って道案内を 務められる神で、天孫降臨の時、皇孫瓊瓊杵尊を天八衢に立ち 向かえ云々とあり、災難除けの信仰がある。 即ち海上では船霊神、路上にあっては交通の守護神として 衆庶の尊崇が厚い。  当社の創立はつまびらかではないが口碑によれば、元矢田郡 白川村に鎮祭されていたが、平清盛福原に都を定め、兵庫築港 に際し七日七夜の参籠の後、祈願を込めたるところ難事業に成功 したので、後年此の地に奉遷したと伝えられる。 元禄九年の『兵庫津絵図』には佐比江を内海と記し、その入口は 九~十一米であるが、長さ二百十七米、横三十六米の入江を画き、 その岸が七宮神社の北に迫り湊口惣門の東にあった番所のそば まで海になっている。 元禄の頃の佐比江の入江が如何に深く湾入していたかが知られる。 室町時代東大寺所管の兵庫の北関があったのはこの辺りの地点 であろうと言われている。 …

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西出鎮守稲荷神社のビリケンさん

松尾稲荷神社から、新開地方面に戻り、多くの車が行き交って いる国道二号線を渡ると、その二号線沿いに西出鎮守稲荷神社 が確認できます。 こちらの西出鎮守稲荷神社は以前に参拝していますが、その時は ビリケンさんについて特に関心もありませんでしたので、 ビリケン像を確認しませんでした。 今回は、拝殿内に置かれているビリケン像を外から見ることが できました. 【西出鎮守稲荷神社】   由緒書によれば、当社の沿革は定かではないものの、寛政 年間(1789~1801年)には既に鎮座しており、商売繁盛・交通 安全・防火守護の御利益のある「ちぢみさん」として、西出町の 住民に親しまれています。 また、境内の一角には文政7年(1824年)に海の豪商として 活躍した高田屋嘉兵衛から献上された石灯篭があり、その他にも 平清盛の弟・経盛の第二子である平経俊の塚があります。 祭神  主祭   宇賀魂命 【境内社】   日向社     安産守護   白竜社     浄水守護 【ビリケン像】(ビリケン菩薩) 【 高田屋嘉兵衛の献上灯篭】 文政7年(1824年)に嘉兵衛が海上安全を願って献上した 石灯篭であるとされています。 【平経俊乃墳】(平経俊塚) 平清盛の甥である平経俊の墓所であり、現在では子供の 守護神…

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